近しい存在
私のオバアチャンは、ある日突然勤行を始めた。お仏壇に向かって、宗派のお経を唱えるアレ。
最初はお経を全然知らなかったから、ネットか何かで拾ってきたお経の音声を流しながら漢字を目で追うだけ。そこから徐々にスキルアップして、今では目を瞑っていても唱えられるんじゃないかというくらいだ。
本当は何かしらのきっかけがあって始めたことなのかもしれないが、ある日突然お仏壇の隣に置かれたラジカセを見て、「また新しいことを始めたんだ」となんとなく感心したのを思い出す。
ちなみにその前は絵手紙好きが高じて協会公認の絵手紙の先生になってみたり、朝は6時前に起きてウォーキングに出かけたり、総じてなかなかアクティブなオバアチャンだった。
多感な時期を一緒に暮らしたからか、私の理想像は限りなく彼女に近いものとなりつつある。活動的で優しい、おおらかな女性だ。
最近そんなオバアチャンの姿を思い出しては、私もそろそろ本格的に自炊をしないといけないのではないかと思い始めた。
帰省した時食べた料理があまりに美味しかったからかもしれない。
というかそれ以上に、家に食材がひとつもない時の絶望感や、人が泊まりに来てくれた日の朝、「冷蔵庫には何もないので朝ごはんは出せません」と言う時の罪悪感も大きな理由になっている。
そんな状況の中まずはスーパーで食料を、と買い物に出かけたら、あまりにも何もない状態からの買い出しだったためにとんでもない金額がかかってしまった。えらいこっちゃ。
けれど4年前の「自分のご飯は自分でつくる!」と決めていた(当時は)あの時と決定的に違うのは、自分のために料理をしようという動機よりも誰かが来た時のために訓練しておこうという動機が強いことなんじゃないかと思う。
思えばオバアチャンの勤行も、お仏壇の向こうにいる人のために唱えるお経だったから今日まで続いているのかもしれない。
たしかに、絵手紙やウォーキングは、いつの間にかやめてしまっていた。
誰かのために続ける習慣の方が、自分のための習慣よりもつづきやすいのかもしれない。
誰かのためにすることなら頑張れるかも、と思える根底の感覚は、憧れの彼女にちょっとだけ近いような気がしている。
まだまだ先にいるオバアチャンとどこかで道が交わるような気がして、笑みが溢れる。