思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

変化

早いもので、1月も下旬になろうとしているらしい。
 
この間まで冬休みだ、お正月だと言っていたのに、1月末には春休みになるわけだから、まさに春ここに来たる、という感じだ。
 
新宿通りに掲げられていた日本国旗も、いつのまにかなくなっていた。
 
 
 
去年の夏は、「季節の扉がバタンと開いたら夏が来て、バタンと閉じると冬が来る」という話をしたが、最近の天気もそんな感じがしている。
 
12月にはジャケットを羽織れば外に出られるような気温だったのが、ここ数日、当然北風が強くなってきて、身を縮めて歩く日が続いている。
 
甘っちょろい防寒で後悔した日が、どれだけあったことか。
 
旧暦に則ると1月は春に当たるが、今の感覚から当時を振り返ると、絶対に分かり合えないと思う。
 
新入生歓迎会を装った派手な飲み会が開かれるのは、桜が満開の4月と相場は決まっているのだ。
 
こんなに寒かったら、川沿いのお花見も楽しめたもんじゃない。
 
当時に「入学」の概念はないと思うけど。
 
 
 
以前も書いたけど、日本人の感性は、多かれ少なかれ平安時代にルーツを持っている。
 
現代人が読んでも十二分に面白い和歌が山ほど残っているし、エッセイなんて、そりゃもう、共感の嵐だ。
 
さすがに木製の船で何ヶ月もかけて旅行したりはしないけども、言っていることはよくわかる。
 
 
 
感性と感覚という言葉は微妙なニュアンスの違いがあるけど、私としては、感性の変化は大局的にみてごくわずかだと思う。
 
けれど感覚の変化はものすごく大きいような感じがして、常識すら大きく変えようとするものだと思う。
 
Twitterで盛り上がりがちな「女性の権利云々」なんてのはまさに感覚の変化の中にある感じがして、常識を変化に繋がろうとしているところなんだと思う。
 
実現は、何百年後になるのかわからないけど。
 
 
 
チープな伝統は変化への抵抗という感じがして、あまり好きになれない。
 
特に、部活などの集団にはびこる「これがウチの伝統だから」という言葉は心底嫌いだ。単に、変わることが面倒なんだと思う。
 
伝統の殻を張っておけば、新しく考えることが少なくてちょうどいい。
 
あるいは、昔の感覚で面白かっただけ。それ、いつから生まれた伝統なんですかね?
 
その集団への帰属意識が低いだけなのかもわからないけど、「必ずこの時間は全員が集まって会議をしなくてはいけない」とか、「舞台の装飾はしてはいけない」とか、「先輩のことは〇〇様と呼ばなくてはいけない」とか、とか。
 
その「伝統」ができた時の感覚は、今の感覚と違うと思うよ。
 
理由なき伝統よ、悪しきものは断たれよ。
 
 
 
季節をはじめとした感性の変化は小さくて、常識への感覚の変化は余波が大きくて、安い伝統は変化から逃げ切る手段になっている。
 
どれも耳障りのいい綺麗な言葉だけれど、それぞれの変化が担う意味は全く違う。
 
私はそろそろ、テスト勉強のために生活を変えたい。
 
安い伝統にすらなりきれない、怠惰な生活から変わるのも一苦労だ。