能ある受け皿
このブログを読んでいるともだちから、「あなたのブログを読んでいると、『みんな、表には出さないけど色々考えてるんだな』って思う」と言われたことがある。
正直なところ、最近は毎日更新することにムキになって、書くことを探すのに必死な部分もある。
けれど人からそう思われているということは、「考える人」ブランディングとしてはそれなりに成功なのかもしれない。
このともだちの言葉もそうだけど、これまでもひとから「考えてるね」とか「考えすぎだよ」とか「もっと気楽にやろうよ」とか、そう言われることが多かった。
思春期のプライドを引きずって、「答えのないことを考え続ける、深く鋭い人間になるのだ」という意識があるのかもしれないけれど、まあそれでも、人並みに考え事はするし、人並みに悩むこともある。
要するに、私はいろんなことを年相応に悩み考えている人だと思っていたわけ、自分を。
けれど1回だけ、「あなた知識はたくさん話すけれど、それを聞いて自分がどう思ったのかについては、あまり話さないね」と言われたことがある。
要するに、「考えてないね、あなた」と。
今まで思慮深い側の人間として生きてきた自負があったものの、心の片隅でギクリとしたのも事実だった。
他人の話を物語として聞いて、納得して、相手が出した結論を引用して、まるで自分が考えたように人へ伝えていたところがある。
他人の話はあくまで彼/彼女の話でしかないのに、知識は知識でしかないのに、それを振りかざして、自分があたかもものすごく強いように見せていたなーと。
本で読んだ話も、学校で勉強した話も、それを知って、じゃあそのあとは?
人間なんだから、ただの受け皿になるべきではない。
能ある受け皿にならなきゃだめなんだ。
これまでの自分がただの受け皿だった気がして、たくさんの回顧とすこしの反省が、数多の場面と一緒に駆け巡る。
「知識は武装になるけれど、信念なき武装は意味がない」と言われた気がした。
相手が本当の装備を持っているのか、よそから得た知識を装備しているだけなのか、私にはたぶん、見分けがつかない。
けれど少なくとも自分は、装備の鍛治くらい自分でできるようになりたいなと、思いました。
ゼルダの世界なら、その辺りで拾ってくることもできるんだけどね。