思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

言葉のクッション

仲のいい友達と連絡していて、「次はいつ会おうね」「明日かな」「明日も会えるね」というやりとりがあった。
 
「明日も会えるね」って、しあわせ度高くないですか?
 
 
 
高校生の時、友達から何気なく「また明日」と言われた時の安心感が忘れられなくて、頻繁に会う友達には意識的に「また明日」「また来週」と言うようにしている。
 
「明日も会えるね」というのは口を衝いて出た言葉だけれど、やっぱりそういう言葉が自然と出るのは訓練の賜物なのかもしれない。
 
相手との親しい距離を、自分も相手も感じられるような言葉えらびは、本当に大切だと思う。
 
明日も会える、週末が終われば会えるとチョット意識するだけで、「バイバイ」の寂しさが二分の一くらいに感じられる。
 
これが「またね」の三文字だったら、「『また』っていつなのさ」とか思ったりして、自分の細かさに辟易する。
 
でも神は細部になんとやらだし、そういう小さな違いを気にも留めない人には、小さな幸せに気づくこともないような気がしたりして。
 
 
 
同じことを言うにしても、言い方ひとつで相手の受け取り方は180度どころか360度変わってしまうことがある。
 
360度?
 
 
 
「あなたを傷つけたら悪いんだけど、」と前置きされると、なぜか余計に傷つく気がする。
 
その言葉を受け取る前に、メーターが過敏になるから。
 
「否定するとかそういう意味ではなくて、」と前置きされると、そこに含まれる否定的なニュアンスを嫌でも感じ取ってしまう。
 
否定的な意見であることへの保険をかけられただけだから。
 
「あなたの言う通りで、」という前置きで、相手の言葉を素直に深く理解したいという気持ちになる。
 
言葉のクッションは小さくてささやかだけど、その小さな違いは、確実に大きな理解を生む気がしている。
 
 
 
「いやいや、そんなの当たり前じゃん」と思う人、たくさんいると思う。
 
私もあなたの仲間です。
 
よくある自己啓発本でも「当たり前のこと書いちゃって!」という現象はよく起こる。
 
『世の中にはあなたのことを嫌いな人もいます。でも気にしないで!あなたを好きな人もたくさんいるから』
 
うんうん、そうですね。そりゃそうだ。
 
けれど、それを知っていることと実践していることと、乖離は甚だしい。
 
 
 
小さな違いを大事に理解しようとする、丁寧な人が好きだ。
 
荒くれ者のように振舞っている人でも、そういう繊細さは随所に見えたりする。
 
自分がそんな人になりたいから、というリスペクトの意味も込めているのだけれど、本当に、そういう小さなことに気づく人には生涯幸せになってほしい。
 
 
 
自分もいつかは、と思うけれど、ある程度シンクがいっぱいになって洗い物に手を付けるあたり、今の私にその繊細さは備わっていないような気がする。
 
師匠と呼ばせてください。