思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

戒め

周りの人と話していて、あれ、私って自分が思ってるよりゲーム好きなのでは?と思うことが増えた。
 
同年代の同性で同じくらいゲームの話ができる人は私のコミュニティにはあまりいなくて、異性の友達の方が話が通じるということは往々にしてある。
 
けれど今日、数少ない親しい女の子と話していて気づいたのは、プレイ本数に関しては、私よりも彼女の方が上回っている、ということだ。
 
つまり、彼女にとってゲームの流行は過去のもので、私にとっては今がゲームの最盛期になっているということ。
 
なるほど、と、妙な納得感。
 
私が無類のゲーム好きというよりは、単にその流行が遅れてやってきただけらしい。
 
要は子どもの私が自由に遊べなかったものを、大人のワタシが自由に遊べる、というところに快感があるようだ。
 
もしかするとその手段は本当はゲームじゃなくてダーツやピアノやスケボーでもいいのかもしれない。
 
「ゲーム好きです!」と言うのが、急に気が引けてくる。
 
 
 
法律の観点にせよ個人の趣味嗜好にせよ、大人しかできない遊びがそこにはある。
 
ある人にとってそれはギャンブルかもしれないし、また別の人にとっては酒やタバコや、あるいはR18映画をおおっぴらに見ることかもしれない。
 
長い間私にとってのその遊びというのは、それこそお酒を嗜むことと、終電で帰るあの背徳感だと思っていた。
 
けれど私にとってのそれは、やろうと思えば誰だってできるコンシューマーゲームだったらしい。
 
お酒や何やらはそこまで自分の大人メーターを引き上げてくれない。
 
あとに残るのは服に付いた居酒屋の匂いと、メイクを落とす鬱陶しさだけだ。どっちも本当にキライ。
 
 
 
インスタのストーリーでよく見かける「トリキで飲んで終電逃したなうwww」みたいなやつはもう本当に自己顕示欲オブザイヤー2018という感じなのだが、じゃあ何を顕示しているのかというと「酒を長時間飲める」「終電逃してもお咎めなしの余裕」という2点だと思う。
 
楽しい飲み会は最高。でも私のスイッチはそこじゃないから、アナタの感覚とはチョット違うわね。
 
と、思っちゃう。
 
楽しく飲んでますみたいなの見たらまさに「いいね!」という感想でしかないんだけど、そこに「終電逃した」の一言が付いてくるだけで急に「アダルトなワタシ、どうですか!」みたいな自己顕示欲を感じて、興ざめしてしまうことがある。
 
なぜならフライパン程度の心の広さしか持っていないから。
 
 
 
うら若き高校時代、大学生になったら飲み会、カラオケ、バイト三昧!みたいな生活が待っていると思っていた。
 
その生活に順応することが大人の嗜みであり、そうやってコミュニティに馴染んでいくものだと思っていた。
 
けれど実際の大学生活は、毎日飲み会に行ける余裕があるわけでも、必ず二次会がカラオケなわけでも、週5でバイトができるぬるい授業ばかりなわけでもない。
 
自分の中で「これをしている自分はイケてるオトナなんだ!」という定義を持てなければ、周囲が生み出した幻想的大学生活を追い求めて、悲しくも理想的な大学生活を送ることになる。
 
 
 
それ自体別に悪いことではない。
 
悪いことではないけれど、幻想への意思なき意識は、自分の時間が食われるだけだね。という。
 
我が身への戒めとして。