思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

クリスマスノベルティ

スタバでe-giftを使って決済をすると、期間限定でサンタさんのフィギュアがもらえるらしい。
 
そういうキャンペーンはたくさんあるものの、マスコットキャラクターが人魚しかいないスタバで、こんなに可愛いサンタさんがもらえるのか!と嬉しくなって、ちょっとだけだけど、購買意欲をそそられた。幼稚。
 
全部で6種類くらいあるらしい。スタバファンは全部揃えたりするのかもしれない。
 
友達と初めてそのサンタさんを眺めた時、「かわいい」とか「小さい」とか言ったものの、その数秒後には「でもこれって置いておくだけなのかな」という話になった。
 
 
 
気づいたことが二つある。
 
一つ目は、「カワイイ」だけではそれを手に入れる理由にはならないこと。
 
二つ目は、見た目だけが綺麗な女性も、この先そこまで高い希少価値は得られないということ。
 
カワイイグッズは世の中いくらでもあって、それこそ100均なんてカワイくて実用的な商品の宝庫だ。
 
せっかくスタバがサンタさんのカワイイフィギュアをノベルティにするなら、珪藻土で豆の乾燥を防ぎます!とかの機能をつければよかったのに、と、カワイイサンタさんを見て哀れに思った。
 
 
 
女性もまた然りで、カワイさとか美貌とか、そういうものを持っている人はどこにでも存在する。
 
カワイイ人、キレイな人、どのコミュニティに行っても自分より見目麗しい人は必ずいる。
 
でも私は、見た目だけで自分の価値を高く見積もっている人を無条件にステキだとは思えない。フライパン程度にしか心のキャパシティがない。
 
 
 
あくまで、あくまで自分を棚に上げてお話ししますけれども、
 
見た目がカワイイ人で「カワイイからなんでも周りがやってくれる」と思っている人は一定数いると思う。
 
それは私の周りにとかではなくて、世間一般的な話で。
 
でも彼女たち(あるいは彼ら)が持っているその見目麗しさにはもちろん賞味期限があって、オイシク食べられる期間を過ぎれば、じゃあアナタ、何ができるのかしらん?と。
 
これまで私の周りにいたステキな女性(男性)たちは、自分がもっと良くなるために何かができる人だった。
 
自分が持って生まれたものに飽き足らず、足りないものを補おうとする不完全な彼らが好きだった。
 
自分が今ある環境に自惚れて、努力を怠る美人ほどツライものはない。
 
そして彼らは、かなしいかな、それに気づかず優雅な未来予想図を嬉々として語る。
 
君は美人だけど、何もできない美人になってはいけないよ。
 
私はその土俵にすら立てていないと自覚しているので、外も中も、上も下も前も後ろもつぎはぎだらけだ。
 
でもそんな自分が嫌いじゃなかったりする。足りないものを探しているうちは、まだ自分を嫌いにはなりきれない気がする。
 
 
 
無邪気にポーズをとる無力なサンタさんを見て、無力な美人たちの顔を思い浮かべながら、私はフラペチーノを受け取った。