千里の道も
Apple Musicでは、配信許可が降りていないアーティストの曲を聴くことができない。
これまで特別困ったことはなかったが、TikTokでたった15秒聞いた曲が数週間も頭から離れず、「Apple Music ない曲 買い方」と検索する羽目になった。
この年にもなって、なんとも幼稚な検索ワードだ。
冒頭言ったアーティストとはこの時、米津玄師を指す。ご存知の方は多いだろうが、米津玄師の音楽は、Apple Musicに加入するだけでは聴くことができない。
古参のような言い方をすれば、私もVOCALOID全盛期時代から彼の名前を聞いていたリスナーの一人だ。
特別ファンだったというわけではないが、二次創作が溢れるサブカルチャーの世界において、当時、彼の名前を知らないわけにはいかなかった。
とはいえiTunesで米津玄師と検索してみると「全盛期」の曲も現在の名義でボロボロ出てくるものだから、図らずもノスタルジーに浸ってしまう。あれもこれも、当時の自分が無限に聞いていた曲の数々だ。
そして懐かしむあまり、最初に探していた曲に加えて2曲ほど購入してしまった。すっかりiTunesの罠に嵌っている。
けれどまあ、結果よければなんとやら。擦り切れるほど聞けばいい。
さて、大昔の曲をナツカシーナツカシーと遡るうち、ふと「ワタシ、このまま行ったらどうなるのかしら?」と思った。
突拍子もない疑問だが、心当たりがないと言ったら嘘になる。
記憶を突っつかれて思い出したニコニコ動画でのハチ人気と、今のiTunesでの米津玄師への高評価の数々が、突如として一本の線に見えたからだろう。
一方今の自分の有様を鑑みると、この先につながる一本線の行き先は、心底悲惨なものになるのではないかと思ってしまったのだ。
ここまで偉大な作曲家と比較すれば悲惨さも際立つものだけれど、ここまで大きな差がなければ無視してしまうほど、今の自分はこの現実から目を背けようとしているのかもしれない。
最近、出かけるのが億劫だ。超寒いし、メイクも超面倒だし、出かければ金欠が超加速する。
地上波の番組はほとんど見ないで、何度も見ているおすすめ動画をひたすら繰り返す日々。映画も映画で、お気に入りを何度も観るタチだ。
けれど果たして、身体も意識もお出かけを拒むようになったら?私は一体、誰に何を覚えられて存在したことが証明できるのだろうか?
事件に際して、家族の言葉はアリバイとして機能しないらしい。他人の意識や記憶でしか、自分がそこにいたことを証明することができないのだ。
世の中との接点無くして生き延びようなんておこがましい。
与えざるもの、在るべからず。
キミは一人で生きているわけじゃあないんだぜ。
千里の道も、意識から。
意識が高いだけではダメだという話もあるけれど、意識無くして行動はないのだから、最初の一歩として悪いことではないと思う。
あくまでその先に、行動があるのならね。
あらゆる情熱を忘れかけた屍のような自分だが、心のどこかで「恥ずかしくない自分でありたい」と思っていることに安心する。
そしてこれを記録しておこうとPCのキーボードを叩くと、こういう時に限って手がかじかんでいるのが腹立たしい。思い通り動くようになったらなったで、そろそろ終わりの言葉を結ぼうという頃だ。
さてまずは、学業の諸々に手を付けるところから取り戻していくとしよう。
千里の道も、意識から?