かんがえの素
この間人と話していて、「ああ、これが私の言いたかったことだ!」と納得できるたとえ話に行き着いた。
これまで自分が思っていたわだかまりが、その例えでしゅるしゅる溶けていく感じがした。
私は例え話を探すのがすごく苦手なので、こういう腹落ちする例えに行き着いた時は人の数倍快感がある。
頭のいい人はたとえ話が上手で、考えいていることをいつでも抽象的に捉え直すのが上手なんだと思う。羨ましい。
例え話にかかわらず、人のために話をまとめていると、自分の思考回路もすっきり整備されていく感じがする。
自分と自分のコミュニケーションでは考えられる限度がある気がしていて、そのリミットを解放するためにはやはり他人という鍵を使わないといけないような感覚がある。
自分の中で結論が全然まとまっていないことでも、ぽつぽつ人に話していくうちに、その道筋が綺麗にまとまる時がある。
人から「それってこういうことだよね?」と言われて気づくこともあるけど、こういうことが起こるのは、ほとんどの場合、ものすごく抽象的な考えを相手に伝えるために、具体的な話に落とそうとする時だ。
人との対話で自分の思考回路が形成される瞬間に立ち会うと、自分の考え方が利き手の視点から作り上げられているということを実感して、なんだか不思議な感じがする。
自分の考えなのに、他人の考えがもとにあるという不思議。
人と話すことで相手の目を手に入れて、やっと気づける自分の思想がある。
目の数が多ければ多いほど、自分の思考回路が大きな木のように展開していく。
井戸の中からどれだけ外を見ようとしても、限られた部分しか覗くことができないなと思ったわけだ。
他人の視点が自分を外から作り上げている感じがして、自分の身体なのに自分の身体じゃないような気がしてくる。
私の考え方を構成しているのは他人の考え方で、じゃあ私は誰なんだ、みたいなね。
自分を構成しているのがこれまで出会った他人なんだ、と意識した時とっさに顔が思い浮かぶのは、どれも人生の転機に関わった人たちだった。
今関わりのある人も、そうでない人も、好きな人も嫌いな人も普通な人も。
彼らと今関係があるかどうかに関わらず、その人たちはすでに私の一部なので、きっと一生忘れることはないと思う。