秀才
学年も上がったからか、大学に行く頻度がかなり下がった。唯一取っている授業は少人数制で固定のメンバーしかいない授業だから、必然的に会う人も限られてくる。
この間長すぎる春休みが終わって大学に行った時、本当に偶然、そのクラス以外の人に会った。
何で知り合ったかあまり詳しく覚えていないけど、たしか何かのグループワークで同じ班になったとかそういう繋がりだった気がする。
彼はグループのリーダー的存在として人をまとめるのに長けていて、彼のおかげでグループワークが成功したと言っても過言ではなかった。
大して仲がよかったわけではないけど、あまりに久しぶりに声をかけられたので嬉しくなってしまって、ちょっと話し込んでしまった。が、なんだか変な違和感があって私は終始もぞもぞしていた。
私の知っている彼はもう少しスマートだった、と思ってしまったのだ。
ついこの間まで「なんでも知っている」と思っていた人が案外そうでもないらしい、と思うことは、あまり多く起こることではない。けれどあまりに期間が空いてしまうと、そういうことも起こりうるようだ。
以前は知識のある人が好きだし偉い、と思っていたけど、その人の知っている「私が知らないこと」というのは私が学を身につければつけるほどボロが出てくるものだから、その知識の差みたいなところは大して問題ではないんだと思った。
今はむしろ思うべき「頭の良さ」みたいなところは思考回路がいかに整理されているのかということや、食事の仕方が綺麗とかいう作法を身につけて育ってきたかなど、ある種一朝一夕には身につかない部分を指しているんじゃないかと思う。
食事の食べ方なんて頭の良さにカウントするものじゃないかもしれないけど、教育が行き届いているか否かの指標としてはとても信頼できるものじゃないかと思う。
知識は自分を守る盾になるが、それは結局付け焼き刃の盾に過ぎないのかもしれない。思考回路の分岐を増やすには、知識の先にある思考に耐えなくてはいけない。
人のふり見て我がふり直せ、とはよく言ったもので、私も、そういう時間を要する知識や教養のために先行投資できる余裕を持っておきたいと、目の前で話す彼を見て思ったわけだ。