思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

小さな鍵

この間ある社会人の方と話す機会があったのだが、偶然いた共通の友人の話題で盛り上がった。お互いその人と知り合いであることは知らず、随分長いこと話していたのだ。
 
その共通の友人というのは私から見ると万能で、とにかく向かうところ敵なし。どこにいても彼女は評価されるに違いない、スーパーヒーローのような存在だった。
 
私は常々「なんとかしてあの人に勝てないかな」と策を練っているのだが、どうにも抜け道が見つかりそうにない。冷静さとユーモアのある、大変素敵な人。
 
私が率直にそれを伝えると、相手も概ね合意してくれた。例の人は、どうやら大学時代からそうらしい。
 
そして彼は、「彼女の強さは、自分なら絶対に目標を達成できるという圧倒的な自信なんだと思う」と言った。確かに、概ね合意である。
 
 
 
自分への信頼をベースに目標を達成できる人は、本当にすごい。そのご家庭の教育メソッドをぜひ私に売ってほしいとすら思う。
 
なぜなら、自己肯定感の高さは生涯の成長角度に直結するからだ。
 
自己肯定感というのは幼少期の教育に基づいて手に入れるものなので、ある程度歳を食ってしまった人がそれを手に入れるには大変な困難が強いられる。
 
何回か書いた気もするが、私自身は自己肯定感が高い方ではないので、そういう原体験のある人が本当に羨ましい。
 
と、ずっと思っていた。
 
ところが、この数年で感じる自分の変化から思うに、それはどうやら違うらしい。
 
 
 
入手困難なプレミア品だと思っていたそれは、実は、ただ新しい人と出会うだけで手に入れられることがわかった。
 
何も特別な成功を収めるとか、何かで人から大げさに褒められるとか、そういうことはなくてもいい。
 
関わる人の範囲が広がれば広がるほど、自分の目では見えない自分の像が見えるようになる。
 
見る目の数が増えれば、自分がいかに深い井戸から外を覗こうとしていたのかがわかる。
 
その中で、自分の悪さを知ることももちろんあるが、それ以上に「自分って、思ってたよりイイ人だったんだ」という驚きの方が大きい。
 
どうやら、私は私にとってイイ人らしい。ヨカッタ!
 
この「自分への不信感」という鎖の解き方は、他の人からしたら当然なのかもしれないが、私にとっては21年目の人生にしてトップ5に入るくらいの大発見だった。
 
気分はコロンブス、時は大航海時代である。
 
 
 
「文章面白いね!」と友達から言われたことも、「顔かわいいね!」と道玄坂のスカウトマンに言われたことも、それがただのお世辞だったかもしれないことは、コロンブスと化した私にとってもはやどうでもいい。
 
湧き上がるのは、全力の「ありがとうございます!」という気持ちだけだ。
 
ありがとう、承認!
 
善意のアドバイスなら別としても、結局それをお世辞ととるかどうかは自分の受け取り方なのだから、そこに相手の意図はほとんど関係ない。
 
表情や声色から「これは嘘だな」と感じとることはあるかもしれない。
 
けれど相手から「お綺麗ですね!まあこれ、お世辞なんですけどね!」と言われることは恐らくないだろう。
 
あったらなかなかファニーな体験なので、ぜひその詳細を教えてほしい。怒りをつまみに盃を交わそう。
 
 
 
結局捉え方の違いになるのなら、徹底的に都合よく受け取ればいいんだと思う。
 
ていうかそもそも都合なんて、自分のために作るものだったんじゃなかったっけ?
 
嘘も方便、御都合主義で大変結構。それが自分への信頼に繋がるならね!
 
「美人ですね!」
「親に感謝っすわ!」
 
そんなもんでいい。嘘かどうかなんてこちらで勝手に判断するより手軽だし、お気楽だし、何よりだんだん笑えてくる。
 
笑って相手をかわすうち、「(人から見た)自分の魅力」という隠された小さな鍵に気づくことがあるだろう。
 
そしてそれらの小さな鍵を使えたなら、きっと足元の鎖はするりと外れるはずだ。
 
 
 
思い込みは良くも悪くも自分を縛るものなのだから、そのお世話になるのは、せいぜい自分の都合のいい時だけで十分なのだと思う。
 
自分は絶対火影になるんだ!とか、俺は絶対海賊王になる!とか。盲信は、時に人を何倍にも大きく見せることができる。
 
かくいう私もこう気づけたのはごく最近のことで、鎖を外すために小さな鍵を集めて集めて、鎖の知恵の輪と日々格闘しているわけなのだけれど。
 
火影にも海賊王にもならなくていいけれど、自分が信頼できるだけの自分であるために、その鍵を心の片隅に置いておきたいと思う。