言葉のスケール
この間遠方の父がこちらへ遊びにきてくれたのだが、別れた後すぐに「お土産を渡し忘れてしまった」と連絡があった。
地元でおいしいラーメンらしいので「今度帰省した時食べに行こうよ」と言ったのだが、よほど心残りだったらしく、なんとその場で郵送してくれたらしい。ありがたい話だ。
私は一人娘だったが優しく甘い環境にいたわけではなく、基本的に「(両親基準で)いらないものは買わない」方針の家庭だった。
今でも発売日に最新作を遊ぶ子供を見ると、大人気なくも「いいなあ」と思ってしまう。
そして幼少期の反動なのか、自由に使えるお金が増えた今、私は新作ゲームが出るたびチェックする。
さて、そんなわけでクリスマスも誕生日もゲームはなかなか買ってもらえない家庭だったわけだが、今にして思えばその頼み方がまずかったんじゃないかと思う。
「みんな持ってるよ!」とか、「みんな買ってもらったって言ってたもん!」とか。
少女よ、みんなとは誰なのか。
ゲームを買ってもらえた「みんな」の数を数えてみると案外3人もいなくて、そしてその時母が見せる「ほら見なさい」みたいな顔が悔しくて仕方なかった。
しかし当然である。
今の私基準だと、みんなと呼べる人数は少なくとも10人以上だ。
両親の基準がどこにあったかはわからないが、そりゃ3人もいなければ承諾されないのは頷ける。
大人に近づいている今でも、「みんな」という言葉のスケールを借りて大きなことを言う癖はイマイチ抜けていないと感じる。
言葉は変わっても、「私たち」とか「我々」とか、すぐに言ってしまう。
それ自体が悪いことではないと思うが、「今の私、責任逃れてるのでは」と思うことはある。
友人が教えてくれたことだが、主語を大きくすると相手に当事者意識を植え付けることができるので、チームビルディングの際には有効な手段らしい。
ところが思想や価値観を全面的に押し出したこういうブログだったりとか、有名人がワイドショーでコメントする際に使う「私たち」「みんな」という言葉はちょっとヨクナイのかな、と思ったりなど。
みんなとは誰なのか。
「私たち」と言えば、「私」というよりも責任の比重が小さくなる。なぜなら、外堀を仲間に囲んでもらっているからだ。
でも、本当にその仲間は実在するのか?自分の考えを押し通すために生み出した影分身じゃないのか?
この答えは人それぞれだし、私の中でも時と場合によるとしか言いようがないところはある。
でもひとつ思うのは、こういうチームメイトたちの肩を借りる時には、彼らの顔を一人ひとり思い浮かべるようにしたいなと。
人の顔も思い浮かべられないまま助けてもらうには、私にはまだ穴がありすぎる。
ちなみに任天堂DSに関しては、後日、父のテニスの練習に同行した時なぜか買ってもらうことができた。なんだか機嫌よくしてくれたらしい。
父は未だに、娘に甘い。