思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

高円寺じゃないけれど、

昨日の朝、電車の中で、ある記事を読んだ。
 
 
冒頭の「好きなことが見つからない」ということも、それ以外のことも、誰もがどこかに心当たりのある話だと思う。
 
その日初めて会った人に開口一番「あなたの好きなものはなんですか?」と聞かれた時、頭の中には好きな食べ物や心踊る瞬間の映像が大量に流入してしまって、とっさに出てきたのが「最近見ているNetflixの番組が大好きです」という答えだった。
 
 
それは好きなものというよりマイブームであって、その消耗品は土俵の中に押し止まる力を持っていない。もちろんそれは「好きなもの」という括りの中にあるものだが、代替品が目の前に現れた瞬間、それはビリヤードの玉のように押し出されてしまう気がしている。
 
年がら年中好きなものは、もはやその土俵の中にはいなくて、空中というか頭上というか、そういうところをぐるぐる旋回している。
 
彼らからは「戦いにはもう参加しませんよ」という強い意思を感じる。
 
例のコラムを読んだ時も、他人が「好きなものが見つかりません」と言うその描写を読んで、「あなたの好きなものはなんですか?」という問いに読み替えられた。
 
好きなものはたくさんあるが、一番好きなものはなんだろう。
 
好きなものに順位をつけるのはおこがましくて、ユッケもゲームもおしゃべりも、ひとつの物差しでは測れないと諦めてしまう。
 
彼らはたくさんある土俵それぞれの頭上を旋回しているだけで、全体の王者になろうとはしない。
 
 
 
この好きさ加減を教えてくれる、戦いの要になるのが計量カップだと思う。そしてそのカップに磨きをかけるため、私は日々人と会い、新しい感性を手に入れているんだと思う。
 
自分の持っている計量カップが正しい目盛りなのか、人のそれと比べなければ良さも悪さもわからない。
 
孤独が蓄積すればするほど、そのカップの目盛りをすり減らしてしまう。
 
その目盛りが完全に失われた時、何が起こるのか?
 
好きなものを測る目盛りが擦り切れて、今まで測ってきたそれが正しかったのか、自信がなくなってしまう。
 
人のカップでしかその正しさを測ることができなくなってしまう。
 
好きなものとは?なぜならその計りを持っていないから。
 
知性、感性、なんやらかんやらというその人が持つ性分はきっと、新しい誰かにぶつからなければ見つけられることもなく、磨かれることもないものだと思う。
 
 
 
インターネットで人と繋がる時間が増え、孤独はやがて遠ざかったものの、そこにあるのはただの四角い画面だけであって繋がりではない、そしてデザイナーは四角い画面からの脱出を試みて新しいコレクションのコンセプトをsquareにしたりする。
 

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HARE 2019SS 
 
いびつさという言葉の中にあるのは心に抱えるいびつさの意味だけではなくて、まさに正面、この画面の中にこそ広がっているのかしらんと思うわけです。
 
SNSをはじめとするインターネットは、他者との繋がりを強める(あるいは弱める)一方で、自分との繋がりばかりは何故だか強化してしまう。
 
人の意見を聞き入れる以上に、自分が何かをしなければ、眼前の景色が動かない世界だから。
 
自分のアクションに対して他者からのリアクションがある世界だから。
 
そしてリアクションを求めるには、自分に似た相手を探してしまうから。
 
自分との繋がりを強めることは自分と向き合うこととは違っていて、前者は自分の考えが正解だと思うこと、そして後者は自分に懐疑的でいることだと思う。
 
どちらも良いこと、悪いことの両面があって、物事は全て表裏一体だと改めて。
 
 
 
Twitterは消耗される言葉だ、と言った人がいたけれど、その消耗される言葉は頭の中を行き交うひとつの粒子に過ぎず、そしてそれは自分を理解するためのアイテムに過ぎない。
 
それを理解し心地よく感じてくれるのは、自分に似た誰かだったりする(もちろん、自分と全く異なる人が中傷してくる紛争地区もたくさんあるけれど)。
 
 
 
若人のバカさ加減を遺憾無くワールドワイドウェブに発揮しているのがまさしくこちらのアカウントなのだけれど、考えていることをこうも書き連ねなければ自分の中にあるいびつさを消化しきれない。
 
そしてこれがなければきっと、私は六畳一間のこの部屋で、こんな「バカさ」をグツグツ煮込む一人暮らしで孤独を加速させてしまうんだと思う。