理解と共感
当然と言えば当然なのだけれど、世の中には知らないことがたくさんある。目の前にいる相手の感情を理解することはもちろんだし、単なる体質や性質も完全にわかることは難しい。
私は花粉症とかアレルギーを持っているわけではないから、ある季節や場面における気まずさみたいなものを体験したことがない。
花粉症の人はそろそろピークも終わる頃なのかしら。知識がないのでその最盛期がいつにあたるのかもわからない。
私が美味しい蟹を食べる横で甲殻類のアレルギーに苛まれる友達を見て「おいしいのに食べられないのかあ」と呟くことしかできない。
最初から食べてない甲殻類の方が、途中から急に始まる花粉症の辛さよりも軽症なのかもしれないけれど。
どちらにせよそういう状況に置かれている人たちの気持ちを全く同じように感じ取ることはできなくて、人間がいう「感覚の共有」には割と低めの天井が設定されていることに悲しくなったりする。
想像するだけなら簡単だけど、相手が本当にどう思っているのか、どう感じているのかを共感し痛みを分かち合うことができないのが本当にもどかしい。
いいことも悪いことも「相手の立場に立って考えましょう」なんて手垢にまみれた表現に頼るのはやめて、いっそのこと、ただ真剣に「あなたのことを理解しようと努力しているが、完全にわかることは難しい」とスッパリ言い切ってしまった方が気分が楽なんじゃないかと思う。
「あなたをわからない上でワタシにできることを探したい」という気持ちが少しでもあるのなら、その刺々しい言い回しだって優しさのひとつに数えていいはずだし、少なくとも共感から逃げた感情ではないことがわかると思う。
ここしばらく「理解はできるが、共感はできない」という感覚を大事にしようと思っているのだけれど、そう思い始めた頃、私の持論に対して友達が全く同じ言い回しをしてくれて、「そういうことだよ!」と大きく頷いた。
そりゃ共感してくれるなら気分はいいが、理解してくれただけでその優しさにありがとうと伝えたい。