大人の中身
最近、「些細なこと」という言い方をよくするようになった。
小さい時は自転車に乗るのにもたついて、目の前から颯爽と走り去る母親の自転車と自分を見比べて大泣きしてみたり、クラスの女の子がちょっと仲間はずれにしたことを取り立てて大きな問題にしてみたり(これは本当に、サッカーで相手にレッドカードをお見舞いしたい時のパフォーマンスと一緒)。
けれど小学校も高学年になったくらいの頃だろうか。
いつのまにか、静かに嵐が過ぎ去るのを大人だと思うようになった。小学校6年生の時出会ったワルい女の子に、何かしらいやらしいことをされても私はあくまで強気な態度を崩さなかった(つもり)。
当時の自分の心持ちはといえば「こんな小さなことで騒ぎ立てるヤツは、オトナじゃない」だった。
今の自分はといえば、些細なことだと思いながらも割としっかり抗議するし、言葉遣いには気をつけるにしろ、間違っていることは間違っていると伝えようと思っている。
人間関係の円滑さを優先してしまって怯むこともあるけれど、気持ちの上では、気をつけているつもりだ。
昔の自分が今の私を見たら、彼女はきっと性根の悪い顔をして「コドモだね」と嘲笑ってくるに違いない。
当時の私はそういうヤツだ。
けれどそれでもいいじゃない、と思うようになった。素直になったっていいじゃんね。
小学生の私に教えてあげたい。
自分が怒ったことや、悲しかったことに対して「こんな些細なことで怒るなんて、悲しむなんて、私はどれだけ器の小さな人間なんだ」と思う場面はいつだってたくさんあるけれど、本当に悲しかったことは「悲しい」と喚き散らせばよかったのだ。
本当に怒っているなら「些細なことに怒るなんて」と言わず、大声で「私は怒っている!」と言えばいいし、ほんの小さな一言で大きく傷つけられたならそれは「些細なひとこと」で片付けてはいけないと思う。
人との関係を悪くしないように意識するばかりに、自分の感情を卑屈に小さくする必要なんてないんだと思う。
もちろん、何事も中庸が大切だけどね。
大声で抗議する人は、側から見れば物分かりの悪い子どもだと思われがちだったと思う。
けれどそれが自分にとってのおおごとだと思うなら、変に大人のふりをして本心を隠す必要もないんだった。
他人には子どものように見えていても、案外彼/彼女の方が大人な可能性 だってあるわけだ。
全てが決まってしまったことをひっくり返すのは流石に大人気ない。
それならこっちだって、素直に言えばいいじゃないか。それはちょっと違うんじゃないですか!