思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

根深い心配性

卒業を目前に控えた友人と、近い未来の話をした。
 
紆余曲折あって私も今のポジションから離れることになるので、来たる「近い未来」に二人が(大きく)関わることはない。
 
小さなことから全体的な話まで、現状改善すべき点をそれはもう多岐にわたって話したわけだけれど、二人そろって「今これを話すべきは私たちふたりではない」と思っていたに違いない。
 
 
 
思えば、高校時代の部活でも似たようなことがあった。
 
自分たちが当事者ではあるけれどそれ以上に今後の心配なんかをしていて、たかだか17歳の少女が一体どんな体制を変えられるのか、関わることのできない部分にまで話が及んでいたと思う。
 
在来線を西へ西へ進んで行くと、駅のベンチから海が見える、普通列車しか止まらない駅がある。
 
私たちはそのベンチから遠くの海を眺め、ああでも無いこうでも無いと議論したところ、最終的に「私たちは無力だ」という結論に至った。
 
私が当時通っていた学校では、テスト期間中に職員室に入れない代わりに、マイクで教室の中の先生たちに呼びかけることができた。「ナントカ先生、質問があるのでお願いします」みたいな具合に。
 
私たちが入れない職員室では、一体どんなやりとりが行われていたのか。
 
今も昔も知る由はないが、当時は本当に、「学校のここが最悪」とか、「この校則は時代遅れでイケてない」とか、そういう不満ばかりが煮えたぎっていた。
 
拘束されると反発したくなる、ティーンエイジャーとはまさにという感じだ。
 
 
 
昨日の深夜1時前、その日考えたことをベッドの中で思い出してみると、未来を憂いる性質が全く変わっていないと気づいて笑えた。
 
昨日の私も高校生の私も、自分の手が届かなくなる部分に関して心配が尽きなくて、あとのことはあとの人がやってくれるはずなのに、未だ心の底から信じきれていない部分があるというところは何も変わっていない。
 
今に関して言うなれば、きっと前にも考えていた「時間の信頼」が足りないんだと思う。
 
誰が悪いわけでもなくて、ただただ私が人見知りということに尽きる。
 
昔の場合は多分、常に何かに不満を持っていたかっただけかもしれないけれど。
 
 
 
見えない未来を憂いても仕方がない、ということを、口先だけでなく気持ちの上でも理解しただけ成長したのだから善しとしよう。
 
見えないものを心配するのは、無駄とまでは言わないが、予想が外れやすいことは確かだ。
 
未来を憂いても仕方ない、仕方ない。
 
 
 
とはいえやっぱり、心配なのは変わらないんだけどね。
 
性根がすぐに変えられるほど、まっすぐ成長しているわけでもないんだから。自覚症状がある分、軌道修正は難しくない。