たられば話
目の前で電車がいってしまって、「さっき走ればこんなことには…」という無力感にさいなまれている。
家から外へ出る時の意気揚々とした朝ならまだしも、帰りの疲労感を引きずって走るには、私の足は遅すぎた。
長い前髪がまぶたにかかる感じもうっとうしくて、せっかくビューラーで上向きに上げたまつげはぐったり気味らしい。そういえばコンタクトの乾燥もひどい。
ありとあらゆる身だしなみが、揃いも揃って疲れを糾弾してくる。たしかに、それはそう。
けれど考えてみると、ドロドロになったメイクや髪型も、さっきまではそんなに大きな違いを生んでいなかったようにも思えてくる。
あと1時間でも帰路につくのが早ければ、朝必死に巻いた前髪はかろうじてカールを保っていたと思うし、まつげもまた、上を目指す気力があったんじゃないかと思う。
人に囲まれていた場所から急にひとりの帰り道に放り出されるのが無性に寂しくて、思いついたことを周りへやみくもに話しているうち、気づいたら例の1時間が過ぎてしまっていた、というわけ。
最近は嘘みたいに時間が過ぎるのが早くて、「あともうちょっと時間があれば」「あともうちょっとだけ」と思うことがある。
あとちょっとだけ、あとちょっとだけが、積もりに積もって1時間。
その1時間だって、時間にすればたったの1時間ではあったけれど、私にとってその時間が持つ意味はただの1時間ではなくなっている。重すぎる「あとちょっと」だった。
小さくて重いあと少しの猶予が信じられないほどの深い闇を生む気がしていて、末恐ろしさを感じる。考えてもわからない未来のことだから、仕方のないことではあるけれど。
あと少し、あと少しというたられば話ができるのも、あと少しになった。すぎる時間はあまりに無情で、時間の流れは一定ではないんじゃないかと疑わざるを得ない。
今まで普通だったことがぱったり普通じゃなくなる異常さは、果たして自分が耐えうるだけの「小さな差」に抑えられるのかしら。
たとえば前髪が重いとか、まつげが視界に入るとか、その程度の小ささなら許してやってもいいかもしれない。
想像しうる未来図の中では、私はその差を受け入れられる気がしないけれど。
今日は早く寝なきゃね。