思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

旧友

久しぶりにあった人と仲良く時間を過ごせた時、「この人と知り合った昔の自分、よくやったな!」と褒めたくなる。
 
その人と仲良くなろうと決めていたわけでも、何かを意識して距離を詰めたわけでもなかったのに、これだけウマの合う人とこうして仲良くなれた自分はなんと先見の明に優れたことか!と。
 
私は誰かと仲良くなるのがあまり得意ではないので、友人になる中でも、こうして継続して楽しく過ごせる人と出会うのは相当に珍しい。
 
誰かと仲良くなるって昔は簡単なことだったのに、今ではすごく難しい。
 
人に話しかける時の線引きがだんだん厳しくなってきて、TSUTAYAで「どのDVDがおすすめですか?」なんて一言も言い出せない。
 
顔だけ知っている女の子に「仲間に入れて」と見境なく話しかけては断られていた、あの時の鋼の心はどこに行ったんだろう。
 
それにしても、友達たくさんできてよかったね。
 
 
 
確実に知っている人なのに、画面越しに見るとふと「この人と私って、何で知り合ったんだっけ?」と思うことがある。
 
1秒も考えないうちに「ああ、高校の同級生だ」とか、「小学校の塾が一緒だったんだ」とか、すぐに分かる。だって知っている人だから。
 
それなのにInstagramのタイムライン越しになった途端、なんだか他人のような気持ちがしてくる。
 
自分以外の人と楽しそうに写っている写真を見ると、当たり前なのに、「自分の知らない顔がたくさんあるんだー」と気づかされる。
 
少し仲良くなったくらいで相手の全てを知れるはずなんてないのに、傲慢だなあと思う。
 
 
 
そして同時に、相手の全てを知ろうとするのは傲慢ではあるけれど、相手の一部だけでも知れたのなら、その人と知り合えた価値はあったのかもしれないと思う。
 
渋谷のスクランブル交差点でものすごい数の他人とすれ違う時、山手線の満員電車に揺られる時、映画館で座席を探して、隣に座っていた他人と目があった時、「ああ、ここで誰かと出会ったことが、将来の運命になったりするのかなあ」と思う。
 
けれど、大抵そうはならない。
 
他人は他人のままだし、たとえ同じ空間を共有したとしても、一言も言葉を交わさない人だって何人もいる。というか、それが普通だろう。
 
そういう人が大半の中で、限られた何人かのごく一面だけでも知れたことは、すでにものすごいミラクルなんじゃないかと思う。
 
私の人生の中で、ミラクルにカウントされる人は何人いるんだろう。ありがとうミラクル!そしてありがとう、昔のワタシ。
 
 
 
この先関わる人がさらに増えれば、一人ひとりのミラクルは薄っぺらいものになってしまうと思う。
 
何歳になっても、色濃い奇跡がなんども起こればいいのにな。出会いも別れも、耳障りのいい言葉でまとめられた運命なんだろうな。