ラブレター
今日Twitterを見ていたら、「好きな人に振られたので、彼女を想って詠んだ短歌を餞のラブレターにした」という記事が目に入った。
告白したらふられたので「その女の子のことを想って過去に作った短歌から選び抜かれた158首」を紙に印刷して本人に渡したら1首ずつ感想をくれた話 - 鯖寿司が食べたい https://t.co/72egLWyCtE
— トルソー (@spq88) 2019年1月29日
書きました。
実際に歌人として活動している人が書いた記事らしいのだが、なんと相手からの講評付きで1首ずつ掲載されていて、なんと言うか、すごく感動した。
短歌の形をとることで、この記事を書いた人がいかに相手を想っていたのかがよく分かるし、相手のチャーミングな講評にも和む。人によっては「何このポエム!」と一蹴しそうな内容を、ちゃんと読んで、面白みを見出す相手の豊かさもまたいいと思った。
Twitterでは「この女性はすごく策士だ」とか「小悪魔だ」とかいう意見もちらほら見受けられたが、それでも相手が真剣に作った文章(しかも短歌)をきちんと一つずつ考えてコメントしてくれるのは、それだけで誠実な人なんじゃないかしら、と思った。
最初は私も、彼女の照れ隠しなのか本心なのかわからないような講評をヘラヘラ笑いながら読んでいた。
「そんなこと言われてもこの返ししかできないよな〜」とか、「実際にこれ言われたら嬉しいだろうな〜」とか。
最初は、本当に、ただの読み物だったわけだ。
けれど読み進めていくにしたがって、次第にその切なさが胸に迫ってきた。
これがもし彼女と付き合えた後に「実はね、」と渡したものだったら、二人が当時を振り返り、愛を深め合うための装飾で終わってしまっていたのかもしれない。
うまくいかなくてはじめて、その価値が二倍にも三倍にもなることがあるんだと思った。芸術なんかはその類なのかもしれない。
それにしたってこの切なさの原因は、思慮深い観察の末生まれた三十一文字に、彼女への想いが全て詰まっていることなのではないかしら。
現代の感情をこの文字数で伝えるには、たくさんの思考とたくさんの観察が必要だ。
三十一文字という文字の少なさが、思慮深さの現れなんだと思う。
これがもし普通の文章だったら?和歌の形をとるのではなく、思いの丈が綴られた日記だったら?
形式の中だからこそ、人の心を捉えて離さないこともあるらしい。
自分の詠んだ短歌に「私より先に死なないでね」なんて返されたら、もう、そうするしかないだろう。
うまくいかなかった分芸術として昇華されても、形式の中で相手の心を掴んでも、相手の「一緒に長生きしようね」という一言が引き出せなかったということは、つまり、そういうことなのだ。