新たな足場
年が明けてから始めた、新しい習慣があった。
天声人語をノートに書き写すような、そういうことを始めようと思った。
「習慣があった」と過去形にしているのはつまり、もう習慣でなくなったということです。
決意した瞬間の清々しさだけが虚しく残っていて、達成されなかった習慣が、視界の端でメソメソしている。
最初は1日だけ間が空いてしまって、また2日空いてしまって、まずいまずいと思っていたら、いつのまにか3日も空いてしまった。
新年から始めた習慣なので、五日坊主ということになる。
毎日同じルーティンをきちんとこなせる人は本当にえらい。
朝刊を毎朝読むという習慣も、夕方ごろに慌てて読むとかいうことがたくさんある。
出だしで成功していても、あとあとうまくいくとは限らないのも難しい。
かくいう私も、このブログを毎日更新しようと思い立ってから、今日で33日目になるらしい。
なんとか三日坊主は避けられたものの、いつまで続くのかという不安と、そもそも実のある内容が書けているのかという懸念の板挟みになっている。
この間読んだコラムにあった、「1文字書くごとに、『自分は本気を出せば、すばらしい文章を書ける、という可能性』が減ってゆきます。」という言葉の真理を、今、目の当たりにしている。
人より秀でた何かがあるような気がしていても、やってみるとただ内輪でちょっと褒められているだけだった、という話は、他人の口から何度も聞いた。
才能に恵まれたことを仕事にしてみると、実際の能力は自分が予想していたそれをはるかに下回っていた、という話もだ。
幻想の中に生きていれば、甘くやさしい羊水に守られているわけだから、その中で一生生きていたいと思うのも無理はないことだ。
けれども人間、それでは刺激がない。刺激を求めて外に出てみれば、予想していた結果は得られない。
井の中のカワズなんとやら。
自分の能力を高く見積もりすぎて苦しむという話はどこでもあるが、それはいわば学歴コンプレックスと一緒で、結局どこまでいっても上には上がいるのだから、自分の足元を見ないと首がもげそうになるのは当然のことだと思う。
首が取れてしまう前に、まずは足場を建設しなくてはいけない。
足場を新たに建てるために、毎日訓練し、抱いていた幻想との差分を埋めていこうとするのが習慣づけの意義なのかもしれない。
「今年こそ」と足りない部分を補填しようとはしたものの、今の私には、新たな足場をつくるだけのゆとりはなかったようだ。
とはいえ、新たな習慣を始めれば、自分のメディアで思う存分にアピールできる時代に生まれたことは、幸い中の幸いだと思う。
新しいことを始め続ける動機が「人に発信できるか否か」というところにある以上、怒られるのが怖くて姿勢良く椅子に座る小学生と、内面は何も変わらないのかもしれないけれど。