思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

ともだち自慢

ある会社の社長講演を聞きに行った時、その人は自社が買収、投資してきた企業がいかに素晴らしく先進的かという話に、割合長い時間を割いていた。
 
起業家と2,3分話したことを自慢する人脈大学生に通づるものを感じて、すっと寒気がする。
 
その人の先見の明は褒められて然るべきだと思うが、その本人の能力が高いことを言えばいいものを、周りの友達自慢をするものだから急に面白く無くなっちゃうんじゃないのかしらん?
 
私が聞きたかったのは、友達自慢じゃなくて、その人の能力がどう醸成されてきたのか、その遍歴だったのに。
 
 
 
これは当然自分も含めてなのだけれど、人間はどうしてともだち自慢がしたくなってしまうんだろう、と思う。
 
「こんなすごい人と知り合える自分すごくない!?」の気持ちは、最初の一口以外は美味しく平らげてはいけないような気がするのだ。
 
前に何度か顔を合わせた人から「俺、このひとと繋がってるんで、このサービス無料で受けたければいつでも連絡ください」と言われたこともある。
 
私の中のイエスキリストが「だが、はっきり言っておく」と前置きする声が聞こえた気がした。
 
 
 
自分の出来の悪さを環境のせいにした瞬間自分の成長が止まるとかいうのは誰もが知っていることだけれど、周りの環境によって強化されている自分の能力があることも忘れてはいけないと思う。
 
この間まではものすごく優秀で天才的な頭脳を持っている人だと疑わなかったあの人も、その人の友人に会えば会うほど、だんだん尊敬の気持ちが薄れてしまったことがある。
 
「環境のバイアスによって架空の力が強化されていただけで、その人自身は大したものではなかったのかもしれない」と。
 
その環境に身を置けることそのものがすごい、みたいな話はあるが 、それ以降の本人の努力がそこに伴っている様子が見えなくて(見せていないだけかもしれないけれど)なんだかがっかりすることもある。
 
周りによって引き上げられているのが自分の持っている能力なのであればそれはとってもステキなことで、素晴らしいのは間違いない。
 
私もその恩恵を十分すぎるほど受けてきたので、とてもよくわかる。
 
けれどその敬意の矛先が自分に向いた瞬間、それは即ち死だと思うわけ。
 
 
 
目の前の友人が就活セミナーで出会った同年代の話をしていて、かつての自分と重なる部分がある。
 
中学校も高校も大学も、環境によって自分が力をつけてきた部分もあるが、それと同じくらい、周囲の力と自分の力を同一視していた部分もありそうだ。
 
昔の自分を見ているようで、穴があったら入りたいとまで思えるようになったのだから、わたしもまた、成長したのだと思う。