比例で以って
必要以上に熱い言葉が嫌いだ。
表面的な暑苦しさの下に隠された、冷たい本音がわからない。
若い人(といっても私も若いけれど)たちは積極的に熱い言葉を使いたがるけど、その度に私は「何を言っているんだ」と思ってしまう。自分でも、冷めた人間だと思う。
保身のために補足するけれど、自分が本気で貢献したいと思っていることに関して、同じ志を持つ人へは全くそんなことは思わない。
毎週のように顔を見合わせ、長い時間向かい合ったり肩を並べて話し込んできた時間の信頼があるから。
時間の信頼はやがて行動を観察した結果、目視できる信頼に変わる。目に見える信頼は強い。
私が言いたいのはそういうことではなくて、顔も合わせたことのない人から寄せられる「熱い言葉」に対する不信感だ。
目に見える信頼はそこにはないし、初対面だから、時間の信頼も築けていない。
「私を信じてください!」と言わんばかりの、厚かましい押し売りが値札をつけて並べられる。
「頑張ろうね!」「一緒に盛り上がっていこうぜ!」という共感の数が、熱い言葉の値段になる。大変、素晴らしいことだと思う。
情熱は結果を呼び寄せるというのは本当のことだと思う。
けれど近い将来やってくる明るい未来を想像して発せられる熱い言葉の数々は要するにやる気の表れであって、つまり未来に対するやる気は、誰でも無条件に持つことができる、というのを忘れてはいけないわけだ。
『夢を叶えるゾウ』という本には、「何もしていない時のやる気は底知れない」という教訓が記されている。私も同感だ。
熱しているところをわざわざ冷ましにくる冷やかしは嫌われる。カッコつけていて、高飛車な印象があるからだと思う。これも同感。
けれど必要以上に熱い言葉に強い嫌悪感を感じる理由は、なんとなく目処がついている。
何も成し遂げていない無力さの中で、やる気だけで評価されるのが腹立たしいからだ。
自分の価値は熱意だけじゃなく、実力で評価してほしいと思っている。
我ながら自意識過剰で自己評価の高いやつだと思う。
最初に言った通りで、時間の信頼と、目に見える結果の信頼でもって評価されたい。
正直なところ、もちろん自分の実力がそれほど高いものだとは思っていないし周囲には到底及ばない、ヒヨコか、あるいは生まれたての子鹿のような覚束なさだということもわかっている。
それでもやはり、口先のうまさには自信がある分、他の部分で評価されたいと思ってしまう。
高く見積もりすぎだろうか。そうだと思う、そうだと思う。
けれど私のちっぽけなプライドが、喉元まで出かかった必要以上に暑苦しい言葉を、胃の低い場所まで押し返している。
やる気はあるんですよ、本当に。