思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

綺麗なケーキ

美味しいご飯をご馳走になった。高級ではないけれど学生同士で行くには少し敷居の高い居酒屋さんで、久しぶりに食べた綺麗な料理の最後には、これまた綺麗で可愛いケーキも登場した。
 
それを目の前にした時の私はというと、予想していたよりもはるかに嬉しくなって、思わず写真まで撮ってしまった。
 
キャピキャピした反応を練習してこなかったからか、一人でヘラヘラ笑って、隣の席から「大丈夫?」と声をかけられる始末だったけれど。
 
こういう時、感情を全面に出してテンションを上げられる女性は可愛らしくて素敵なんだろうと思ったり。
 
レストランの食事を「おいしそーう!」とか言いながら何枚も写真を撮る人のことも本当は少し苦手なのだけれど、こればかりはさすがに、感動の気持ちも込めて写真を撮りたくなった。
 
撮った写真を改めて見返すと、撮り慣れていないせいかあまり美味しそうに見えなくて、「ここぞ」という瞬間に備えるため、やっぱり日々の鍛錬はしておくべきだったと後悔した。
 
スマホは人と人の距離を縮めたこと以上に、思い出を手軽に綺麗に残せるようにしてくれた、その功績の方がよっぽど大きい気がする。
 
 
 
さて電車を降りてから家までの帰り道、私はどうしてもあのケーキを前にした時の感動が忘れられなかった。味も大変、美味しかった。
 
けれど駅から家までさあ帰ろうとした時には、「あのスイーツがくれた幸せをもう一度…」と欲が出てしまって、結局、近くのコンビニでまた美味しそうなスイーツを買った。
 
けれど家に帰ってそれを食べてみても、どうにも同じ気持ちにはなれなかった。
 
容器へのときめきがないというのもあると思うし、味ももちろん、全然違う。何かを食べる時のシチュエーションの大切さが身に沁みた。
 
コンビニで買ったものを食べ慣れていたわけでもない。
 
ただ単純に、「深夜、家に帰って一人で食べる」という状況がまずかったんだと思う。あとは、お店で食べた料理は人から頂いたものだったというのもあり。
 
自分で買ったもの、作ったものは、そのクオリティにかかわらず、人からご馳走になったもの、人に作ってもらったものの特別感に勝てないと思い知った瞬間だった。
 
これまでも(腕前の問題もあるにせよ)自分で作った料理がどうにも美味しくない問題には直面してきていたが、これほど明確に違いを感じたことはない。
 
 
 
「たまに食べるコンビニのスイーツで十分だ」なんて偉そうなことを思っていたが、ごめんなさい、大嘘でした。
 
たまに食べる美味しくて綺麗なスイーツが、コンビニのおかしに勝てるわけがありませんでした。
 
美味しいスイーツ、美味しいご飯はただ「美味しい」というためだけではなくて、誰かと楽しむために用意されたコンテンツの一つなんだと思った。
 
 
 
小さくて綺麗なケーキは、いろんなことを思い出させてくれた。もう一回食べたいなあ。