たとえの品格
遠くへ旅行に行った友達の、壮大な旅行記を聞いた。
私は名前もよく聞いたことのない国だったけれど、そこで彼女が経験してきた人との出会いや交流、景色なんかは、なんとも素晴らしいものだったらしい。
その語り口が異様に魅力的で、私は明日にでもそこへ行ってみたいと思うほどだった。彼女は特に、純粋な言葉でその感動を言い表すのが上手。
ただその話を聞く中で、私が彼女の素晴らしい経験を、人の口伝いにしか聞けないことがまた少し寂しいと思った。
人の経験したことはそのものを同じように体験しないと絶対に分かり得ないし、「人の感性はそれぞれだ」と言ってしまえばそれすら終わりがやってくる。
最近気づいたことだけれど、(良いことでも悪いことでも)その感動を本当に伝えたいと思った時、人はその驚きを壮大なたとえ話で言い表そうとするらしい。
私はそういう、「必死なたとえ話」が好きだと思った。
体験したこと、思ったこと、考えていることをそのまま言うのがきっと風流ではないから、たとえ話が上手な人に惹かれるのかもしれない。
そのたとえ方の中に、品格が現れる気がする。
話がワンパターンな人もいれば、いくつも引き出しを持っている人もいる。どちらが悪いというわけでもない。
そのひとつが汎用性の高いものであれば少なくともしばらく問題ないと思う一方、やっぱり私は傲慢で、いくつもいくつも手札を持ちたいと思ってしまう。
たとえ話の上手な人はそこにたどり着くまでの思考回路が豊かで、いろんな寄り道をした先にある感動を、ひとつずつ前へ遡っているんじゃないかと思う。
その回路が複雑であればあるほど、付随して思い出すそれぞれの感動が、伝えたいことそのものを磨くやすりになっているんじゃないかと思う。
やすりの粗さや大きさは、長い時間をかけないと細かくならないし、大きくならない。
たとえ話が上手な私の友達は、一体どれだけの研磨を経てきたんだろう。
豊かなコミュニケーションのために、私にもそのやすりをひとつだけ分けてもらいたい。
その時にはきっと、ひとつの感動を、近しい感性で受け取ることになるんだろうと思う。