地獄でなぜ悪い
街を歩けばひな祭り、桃の節句と称した商品が所狭しと並んでいて、「ひな祭りも経済を回せるタイプの暦になったんだなあ」としみじみしてしまった。
テレビでもあまりに節句を押し出すものだから、我が家もそれにあやかって、ということはほとんどなくて、いつものように日常を過ごしていたらこうして夜になっていた、というわけ。
けれどこうして過ごす何気ない日常こそ有難しとすべきなんだろうと思う。
これは大して目新しいことではなくて、むしろ手垢にまみれた表現でしかない。
しかしいやだからこそ、今日は敢えて言わせてもらいたい。
「普通が一番」「ありふれた毎日が宝物」、そんなこたぁこっちも知ってるんだと。
ベストでプライスレスな毎日をさらに良くするには何ができるのか、それをこっちは考えてるんだ。そして毎日辛そうな人を見て、わかるわかる、私も自分のしんどさの中、暮らしているんだよと思う。
彼ら、彼女らに心の中で返す言葉は、それ以外には見当たらない。
キミの言う辛さは確かに信じられないほど辛いんだろうと思う。アナタの言うしんどいはそりゃもう耐え難い苦痛なんだと思う。
けれど私も当然ながら、自分のしんどさに加えて他人のそれを背負えるほど屈強ではないし(なで肩だからね)、他人とまで冷たい言い方をせずとも、その人の感じる辛さを純度100%で受け取れるほどに感受性が高いわけではない。
あくまで想像の範囲を出ない辛さを、自分のしんどさで以って鮮明に想像できるほど、私は自分に余裕がない。
人はそれぞれの地獄を生きている、というのは近年稀に見る名言で、いや本当に、おっしゃる通り。
プライスレスなエブリデイがオールウェイズ地獄だというわけだから、世知辛いにもほどがある。
けれどそれは全員が背負うべきシュクメイなのだから、せめてもの救いはこの連帯責任なんじゃないのかな。アナタも辛い、ワタシも辛い。隣の奥田さんも、その隣の神谷さんも、大宮さんも、みんな辛い。
けれどそれは自我を持つわれわれの連帯責任なんだから、アナタの辛さを私に貸したりしないで。
人が抱える辛さにはきっと上限があって、それを重いとするのも軽いとするのも捉え方の差でしかないんだと思う。
ワタシはワタシ、アナタはアナタ。
陽気な彼も、根暗な彼女も、抱える辛さはみんな一緒。
そしてその捉え方は訓練でどうにでもなるんだから、辛さを減らすのではなくて捉え方の訓練をするべきなんだと思う。わかるでしょ?
アナタはアナタで、ワタシはワタシ。
それぞれの地獄を、それぞれの世界で生きているわけ。