思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

自分の話

ゲームの進め方とか、かっこよくいえば意思決定とか、そういう局面に際して「私らしいな、この言動」と思うことがある。
 
ここでこういう発言するの、私らしいな。
 
ここでそんな選択肢が頭に浮かぶの、私らしいな。とか。
 
この自分の源は、一体どこで形成されたんだろう?
 
 
 
源に肉付けされて初めて、今の自分が成り立っていると思う。
 
このお肉は皮脂のようなもので、外界の刺激を受けて剥がれたりくっついたりするものらしい。
 
何度も言っている「昔の自分と今の自分が違う」という感覚は、このお肉が昔とは違うものでできている自覚があるからなのだろう。
 
 
 
数年前までは、この私らしさみたいなものを感じることはあまりなかった。
 
なんの考えもなしに、まるで水が流れるように頭の中で選択肢を並べて、自分が考える一番合理的な考え方を適用してきた。
 
私が他の誰でもない私だ!というこの感覚を自我だと言うのなら、私の自我が目覚めたのは、本当につい最近なんだと思う。
 
 
 
かなり前の映画になってしまったけれど、"The Greatest Showman"を映画館で見た時、曲の良さもさることながら「自分らしさ」というテーマがステキだなと思った。
 
自分らしく生きるためにサーカスを設立して、自分らしい表現を求めて、自分らしいやり方を手にいれる。
 
彼らは、自分の源そのものが自分らしさの源泉になっている。実に西洋的な「自我」だなと思う。
 
けれど私の自分らしさは、他者と比較することでしか手に入れられない気がしていて、ちょっと切ない気もする。
 
これは果たして、東洋的なのかしら?
 
 
 
自分らしさを追い求めているにも関わらず、他者から「あなたらしいね!」という評価を得ると、「と、言いますと?」と返したくなる。
 
他者との関わりでしか自分を実現できない自分にとって、私固有のワタシってなんだ?という哲学が生まれたりする。
 
私以外私じゃないの。でも私以外の人がいないと、私にはなれないの。
 
我が人生、他者の視線なしにワタシを語ることはできないなとつくづく思う。
 
誰もがそうだと思うけど、人と話して思うのは、その性質が群を抜いているということだ。
 
他人との比較で自分を形成する一方で、他人と比較しても卑屈になることがないこの能天気な性格はなんと都合のいいことか、なんとバランスのとれたことか。
 
ありがとう環境、という感じ。
 
 
 
自分が誇りを持って「正しい」と判を押したこの選択が、「自分らしい」のかどうかはまだわからない。
 
今はまだたどり着けない「自分らしさの源」がどこにあるのか。
 
他人との比較ではなくて見つけられることができたなら、自信を持って頷くことができる気がしている。
 
前を向いて、誇り高く。