思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

言葉の形

関西から関東に引っ越してしばらく経つけれど、やっぱり、関西の方のトークスキルは総じて高いと感じる。話にオチをつけきゃ、という責任感が関東の4倍(当社比)くらいあるような気がする。コミュニティに関係なく、誰でも笑える話を用意する能力が異常に高い。
 
もちろん関東にも面白い人はいるので、「これまでに出会った面白い人を紹介して」と言われたら、関東・関西合わせて3人くらいは思い当たる。ジンミャクの広さにもよると思うけど、きっとみんな、そのくらいの人数顔が浮かぶんじゃないかと思う。私の場合は、テレビ的な面白さの人が2人と、内輪の面白さの人が1人。
 
でも身近にいる「テレビ的な面白さの人」は、本当の番組とは違って、人のことを落として笑う人がいなくて平和だなと思う。
 
優しい人に囲まれて生きてきました。
 
 
 
人を貶めて笑いを取る番組を見ると、「どうしてそんなひどいこと言うのかしら」と思う。
 
自分が言われているわけではないのに心のそこでは傷ついてるんだろうなあ、この人殴られてかわいそう、みたいな。気づかぬうちに対象者に感情移入しているのか、見ているこちらも次第にしんどくなってしまう。
 
想像に過ぎないけれど、テレビの液晶を通してみる向こう側の世界はきっと全部嘘で、どこにも本心はないんじゃないかと思う。
 
そこに生きるのは「見せ方のプロ」集団なので、カメラに映らない部分では「ここでこうした方が面白い」「ここでは攻撃される側にいた方が美味しい」といういろんなせめぎ合いがなされているんだろうと思う。誰が本当なんだろうな。
 
プロ集団の中で揉まれて、元来そういう性格ではない人もそこで求められた役割を果たすよう仕立てられているんだろう。不本意にその役割を任されていて、みんな笑ってるけどその笑顔は本当の笑顔なの、みたいな。
 
私の知ったところではないけれど、その場で与えられた役割を着実に遂行できる順応力は本当にすごいと思う。
 
 
 
テレビ画面の向こう側に思いを馳せていると、「私はまだ悪者になりきれないな」と思う。
 
熱心に話しているとき言われる「なんか怖いよ」の一言が怖くて、真剣な話を明るいトーンでするようになった。
 
真剣を真剣に話せば怒っているように見えるし、ヘラヘラ笑ってすればその真摯さが人に伝わらなくて悲しいこともある。人に嫌われることはしたくない、けれどこちらの真剣さを汲み取って欲しい。こちらのエゴばかりが悪目立ちして、ボールを投げるこちらから相手のいる向こう岸まで、正確な言葉が伝わっていないような気がしてくる。
 
「アナタを理解した上で話しているよ」という雰囲気を醸し出すために、自分がまろやかな潤滑油になりたくなってしまう。エゴだなあ。
 
 
 
言葉が真摯になればなるほど、伝わる時の形が変わってしまう瞬間が怖い。
 
明るいトーンを守ろうとすればバカが目立つし、真剣さを前面に出すならその陰鬱さが強調される。
 
私はただ真摯さそれだけを伝えたいのに。本当は、それだけなんだよなあ。
 
いつだって雰囲気に惑わされない、形の変わらない言葉を使いたい。