無駄の本音
我が家のおやつストックが、よく切れるようになった。おそらく、最近やっている「無駄なものは買わない!」ポジティブ不買キャンペーンの影響だと思う。
最初は「おやつを食べなければ無駄なカロリーも取らないし、一石二鳥では?」と思っていたのだが、どうやら頑張る理由が20%くらいなくなるということで、むしろやるべきことへの意欲が下がってしまうことに気がついた。
削減してしかるべき無駄だと思っていたが、案外、無駄というわけでもなかったらしい。
対自分の中でこうしたミスマッチに気づくことはよくあるけれど、他人の「掛け替えのない無駄」に気づくのは、より一層難しい。
小さな子どもが熱心に何かする様子を見ると、なんとも本質的でない部分に時間をかけている、と思うことがある。
私はリッパな大人なので、「どうしてそんなことに時間をかけてしまうのかしら」と思ったり、「先にやることやってからそれしなよ…」と思ったり。
けれどその時間を私が大人特有の強制力でもって排除してしまうと、逆にモチベーションが下がってうまくいかなくなってしまう。うまくいくと思ったんだけどなあ。
自分のことでも難しいのに、人のモチベーションをコントロールするのなんてどれだけ難しいことかしら。
逆に、他人から自分のモチベーションをコントロールしてもらうことができたなら、どれほど楽チンなことでしょう。誰かにやってほしい。
子どもならともかく、大人が「無駄」に意味を見出すのは、ともすれば逃げの姿勢とも取られかねない。
「やりたいことするための言い訳でしょ?」とか、「それただの屁理屈じゃない?」とか。こういうこと、言われた記憶が何度もある。
けれど最近思うのは、自分にとっての本音が、相手から言い訳認定されてしまった時、どう伝えればそれが本心だとわかってもらえるのだろう、ということだ。
私にとってその選択は無駄じゃないと、どうすれば相手に伝えられるんだろう。
二者択一の問題を考えるときなんか特に、正真正銘本心で言っていることでも、「それ、本心からそう言ってるの?」という指摘を受けることがある。
論理的に物事を伝えようとするあまり、話の筋を整えすぎて、額縁に入れられた本心を相手の前に差し出してしまっているらしい。
正真正銘本当です!と胸に抱えていた本心も、人から疑いの目を向けられた瞬間から、丸ごと嘘のような気がしてくることがある。
これは確かに、責任転嫁かもしれないけれど。
それでも本心かどうかなんて私にしかわからないのに、言い訳の粗探しのような質問をされてしまうと、ああ今、疑われているんだなと悲しくなる。本当だよ。
自分が無駄だと思っていることでも、人はモチベーションの原動力にしていることがある。
自分の偏見で無駄を削除したと悦に入っていても、実は逆効果になっていたりする。
モチベーションとか価値基準とか、人の主観に依るところを私の主観で添削しようとするのは、なるほど、なんと傲慢なことなのでしょう。
自分が受けたあの疑いの目を、きっと他人には、向けたりしませんように。