思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

声の表情

最近、目の悪さに磨きがかかってきた気がする。
 
コンタクトを毎日つけるようになったのもあるし、毎日スマホやパソコンの画面を見ているというのもあるけれど、それ以外にも、パッと思いつくだけでもいくつか理由は挙げられそうだ。
 
コンタクトや眼鏡があるので、直接生活に支障が出るわけではない。
 
けれど、だんだん弱っていく自分の生命力をぼんやりした視界で可視化されるのは、少し切ない気もしてくる。
 
 
 
小さい時から家族の中で私だけ目が悪かったので、正直、その不便さには慣れている。
 
母親から「道を渡る時は右左ちゃんと確認しなさい」と言われても、私にとっては目の前の視界よりも周囲の音の方が信頼できたし、コンタクトやメガネがつけられないおふろでも、触覚を頼りに様々な石鹸の用途を見分けることができるようになった。
 
(石鹸の表面の感覚が少し違う感じがする。)
 
こんな風にして、だんだん信頼できなくなっていく視覚以外の感覚を研ぎ澄ませることで、私の世界はそれなりにキチンとした輪郭を取り持つことができていた。
 
傷ついた臓器を他の臓器が補うのと同じで、私の身体は、心の底からは信じられないこの視界を、他の感覚を強化して確実なものにしようとしているらしい。
 
人間の生命力すごい。
 
けれど私は、どうやら他の感覚、特に音の情報に頼りすぎている節があるらしい。
 
 
 
カフェで本を読んでいたら、隣の人が突然「あ、俺か」と小声で呟いて席を立った。
 
どうやら、彼は注文した飲み物を取りに行くのを忘れて、なんどもカウンターから番号札を呼ばれていたらしい。
 
彼としては、店員さんから何度も呼ばれて恥ずかしかったとかいう感想があるのかもしれないけれど、私にとっては特別影響のない、他人の出来事だったはずだ。
 
けれど私はその時、ふいに「この人、こんな声だったのか」と思った。
 
 
 
カウンター席で隣同士だったので、彼の顔を直接見たわけでも、相手の机にパソコンがあったのか本があったのか見たわけでもない。
 
けれど相手の声を聞いた時、「知らない声の人がすぐ隣に座っていた」ということが急に怖くなったのだ。
 
知らない顔の人はただの他人で、視界に入ったとしても「不要な情報のひとつ」として処理される。
 
けれど視界に入らない相手が、遮りきれない声という情報を発した時、「隣に知らない人が座っている」という情報が、突然輪郭を持ってこちらに入ってくるのだ。
 
 
 
考えすぎなのかもしれない。
 
けれど、他人の何気ない声がこちらに否応なく届いた瞬間、そこには自分が知らない誰かがいるという事実が急に怖くなってしまったのだ。
 
 
 
この一件以降、人と話す時には、相手の表情に加えてその声に集中するようになった。
 
相手の声をどれだけ知っているのかが、自分にとってはその人と親しい仲であることの証明になるような気がしたからだ。
 
相手の顔がわかることは当然だけれど、そんなの、同じマンションに住んでいる、一度も話したことがない人も含まれてしまう。
 
私にとっての親しさパラメーターは、「その人の声に聞き慣れているかどうか」だと思う。
 
人間は情報の9割を視覚に頼っている、という話があるが、友達同士の関係においては、それはあまり成立しないような気がする。
 
 
 
私は視力が悪くて、他のひとよりも特別そういう傾向があるのかもしれない。
 
けれど少なくとも、後ろから声をかけられた時安心して振り向ける彼/彼女らは、私にとってとても大切な友達と言えるんだと思う。