思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

オブラート

天気予報のコーナーでは、天気が徐々に悪くなることを「下り坂」と表現する。

「今日の天気は、午後から次第に下り坂」なんて具合に。

物心ついた頃からこの「下り坂」という言葉が釈然としなくて、雨なら雨で悪い天気と言ってしまえばいいのに、と思っていた。

積もりに積もったその疑問をその話を父親にしたら、「あなたにとっての悪い天気は、他の誰かにとってはいい天気かもしれないからね」と言われた。

たしかに、あまりに主観的な言葉を公共の電波で発信するのは気がひける。

人に話す時、「よくない」とか「いい」とかいうことを直接的な表現でもって伝えていいものか、とても悩ましいと思う。

私はその状況を又聞きした状態にすぎず、彼ら彼女らの主観的な状況見聞から私が主観的なジャッジをくだしたら、それはもう正しさなんて誰もわからないカオスになってしまうんじゃないかと思う。

それは流石に言い過ぎだとするのなら、私の主観が果たしてその人たちにとって正しいかどうか、私の正しさが受け入れられるものなのかとまた悩ましい。

自分の意見が全て正しいと自信を持てる人なんているのかしらと思う。

でも世の中には、例えば社長とか役員とか、自分の意見を正しいとせざるを得ない立場の人もいるわけで、その人たちはどう折り合いをつけているのか、とても気になる。

私はただ単に、自分の思う正しさが受け入れられないことが怖くて、予防線を予防線で囲った挙句オブラートで包みまくる物言いをしているだけなのかもしれない。

胸を張って歩く自分を時たま戒める臆病さはもっておくべきだと思うけど、それが保身のためになるのであれば、きっと捨ててしまうべきだと思った。

少なくとも気象予報士さんの言う「下り坂」は保身のためじゃないわけだから、当時の自分が思っていた違和感は、大して重要ではなかったのかもしれない。

フレーズの威力

集中力が削がれている気もしなくもないが、作業用のBGMに歌詞があるものを選んでしまうことが多い。少しでも楽しい気分で作業したいという気持ちがBGMにまで流れていってしまうらしい。
 
そしてそういう時、特別意識しているわけではないのにラブソングを聴いていることが多い。
 
意識せずともそういう曲がよく流れてくるのは、ラブソングがいかに音楽業界を寡占しているかということと、私の視聴履歴がいかにそちら側へ偏っているのかの証明になりそうだ。恋愛とかそういう類の話は、ライトな感覚で歌にしやすいのかもしれない。
 
とはいえ、ラブソングの中に出てくるフレーズは記憶に残ることが多い。それは耳に残るリズムのせいかもしれないし、短いフレーズで人の心をつかもうとする音楽の特性かもしれない。
 
どちらにせよ、3分前後もある音楽の中のたった数秒間が、私の心を捉えて離さないことがあるわけだ。
 
 
 
映画を観ていてもたった一言がその映画の真髄をついていたりするので、一言の威力はバカにならない。音楽も然りで、そこには新曲だとか懐メロだとかいう区別はあまり関係ない。
 
例えば最近聴いていて「ほう」と思ったのは、「勇敢な勇者も恋人には勝てない」「(運命と呼べる君に巡り会えたの) 若気の至なんかじゃ決してないから」というフレーズ。
 
 
勇敢な勇者は結局プリンセスの恋人になりがちという説は否定できないにせよ、愛にまつわるアレコレが若気の至りという言葉で蔑視されかねないということには納得感がある。
 
でもよくよく考えてみれば、そういう恋愛にまつわる言葉は、音楽にかかわらずどんな場面でも出会えばすぐにグッと来てしまうものなのかもしれない。
 
付き合ってほしいんじゃない 「わたしも」と笑ってほしいだけ

con2469.hatenablog.com

 
大して経験豊富なわけでもないのに、心の底に住んでいる知ったかぶりの自分が「ワカルワカル」と頷いている。この感覚は「理解できる」という意味のワカルではなく、「想像に難くない」という意味のワカルが適切な言い回しかもしれない。
 
こういう何事も想像力で補おうとするのはある種悪い癖だ。やらなくても分かったような気になってしまう。
 
人の言葉にすぐグラグラ来てしまうのは、マルチとかネズミ講とかそういうものに引っかかりやすい人の典型らしいから気をつけたい。
 
でもそういう感度って高くてもいいじゃんね。
 
物を買うとかそういう具体的な行動に結びつくグラつきじゃなくて、感動するとか嬉しくなるとか、そういうグラグラなら悪いことじゃないと思うんだけどね。
 
余談でした。
 
 
 
作業中、何の気無しに流れてくるフレーズは、必ずしもラブソングである必要はない。けれど何の気無しに流れてくるフレーズだからこそ、ふと耳に入った時の「ワカルワカル」という感覚が増長されて、心の奥底にずっしり居座るのかもしれない。
 
偶然目に入ったものの方が人の感情を動かしやすいし、どうやら私は、人よりそういう場面に弱いらしい。せいぜい変な詐欺に騙されないように用心していようと、異様にロマンチックなラブソングを聴きながらそう思ったのでした。

性格診断

過去の自分のツイートを一定分取り込んで、よく使われる言葉からその人の性格を診断してくれるサービスがある。

IBMワトソンもそうだし、電通が2020年の新卒採用プロジェクトの一環として行っていたものもそうだった。

私のTwitterは図らずも「はてなブログを投稿しました」ばかりなので、どうしても「安定志向で変化を嫌う」みたいな診断結果が出てきてしまう。

安定志向であることに異論はないが、本当に自分の意思で発された言葉以外で診断されると釈然としない気分になる。

過去のツイートはその診断のために書き換えることができないものだから、診断そのものの信憑性は高そうだ。

けれどそれはあくまで外向きに発信された自分だから、その内面にいるジャムみたいなとろどろしたアレを診断することはできない。

表向きに表現されたSNSの投稿で診断されるなら、きっと人様に見せている顔がどういう性格なのかを測ることができるんだろう、と思う。

つまり外に向けておきたい側の顔がどういうものなのか、自分の中にいるいい部分がそういう性格なんだーと把握することはできる、というわけ。

自分のことは自分が一番知っていると思う時もあるし、「コイツは一体何を考えているのかさっぱりわからない」という時もある。

生まれたてから今までずっと、その間を行ったり来たりしている。

本当の自分しか知らないその性格を診断してもらうには、やっぱり自分に聞くしかないんだろうか。

彼女は私のことを分かってくれているのかな。

一番身近にいるのに、というか一番近くにいるぶん人への顔を使い分けていることを知っているから、自分が本当はどんな性格なのか、どんな表情なのかわからない。

慣れない場所で咳払いするのも憚られる自分の性格もあれば、大勢の前で堂々と話す自信家の性格もいる。

映画『インサイド・ヘッド』みたいに、頭の中に住んでいるいろんな人格が、マイクや司令塔を取り合って生活しているんだろうと思う。

彼女たちのうち誰か一人が私を統治することよりも、時と場合に応じた民主主義政権を貫いてもらった方が、私はよっぽど平和なのかもしれないけれど。

外向きの自分を知ることもそうだけどそれ以上に、いろんな性格の私を一言で言うとどういう表現になるのかが気になる。

予想は八方美人、理想は天衣無縫。

トレーニング

私事だが、無意識に「よいしょー」と言っている瞬間が増えた。

こういう掛け声はそれそのものが人の老化を招くらしいので、高校生の時なんかはあまり言わないようにしていた。

けれどある時を境に、本当にいつの間にか、やたらと連発してしまうようになった。体力がなくなってきているのかもしれない。

そういう掛け声をしてしまうのは、もうなんというか気合いを入れるための儀式みたいなものだと思うから、ある種仕方ないだろうと思う反面、その結果老化が加速してぐったりしてしまうのであれば、それは果たして「気合い入れたし仕方ないかー」で済ませてしまっていいものかとも思う。

年齢による体力の衰えと反比例して思考力みたいなものがうまく生まれてくれればいいのだけれど、どうやらそう簡単なわけでもないらしい。

最近、いろんなことを同時に考えすぎていて、結局一つも処理できていないような気がしている。

同時に何かを考えてシナジーを生める人なら何かを並行して進めてもいいんだろうけど、私はそれが得意なタイプではないらしい。

ひとつずつ考えて消化することでしか頭の容量を確保できないらしいから、必然的に、今の状況は望ましくないということになる。

目の前の人と全く違う話をしているのに、パソコンの画面で入力している文字をそのまま読んでしまうとか、よくある。本当に。

「いろんなことを同時にこなせる人ならこういうことにはならないんだろうなあ」と思いながら、実際にそういう人に出会うと、一体どこにそんな性能のいいチップが埋め込まれているのかと思う。

同じ人間でここまで差が出るか、と思わざるを得ないその性能の差は、個体値の違いをまざまざと見せつけられる。

結局のところは訓練なのかな。

物忘れがひどいとき「ニワトリみたいだね」と言うことがよくあるが、そう言うたびに「頭のいいニワトリに失礼だ」と思う。

訓練を積んだタイプのニワトリ。

記憶力がすごいニワトリもいるだろうし、怠けないタイプのナマケモノだっているんじゃないかと思う。

訓練を積んだタイプのナマケモノ

個体値の違いを無視して種族でくくるのは可哀想な話だと思うから、少なくとも人間相手にはしないようにしようと思っている。

私の場合は、本当かどうかもわからない、答えのない想像をしている時がいちばん楽しい。頭を使わない、くだらないやつ。

街角でぶつかる運命の出会いで咥えるパンは何がいいのかとか、ダイソンの吸引力にカービィは勝てるのかとか、人間の指はどこからどこまでを指すのかとか、そういうことばかり考えていられたらいいのに、と思う。

関係ないことをたくさん考えちゃうから、2つ以上のことを同時にできないんだけどね。

こういうくだらない思考力じゃなくて人への伝え方を上手になる方法とか、もっと実効性のある頭の良さを身に付けたい。

訓練を積んだタイプの人間になりたい。

全能感

この間、「自分はバカだからこんな簡単な問題も解けないんだ」と泣いている子どもに出会った。

その日はなんだか調子が悪かったらしく、普段ならできるようなことがうまくいかず、坂道を転げ落ちるように泣けてきたんだと思う。

バカじゃないしあなたは優秀なんだから、そんなこと言わないでと何度も伝えて、なんとか立ち直っていた。

そのあとは何事もなかったようにけろっとしていたので安心したのだが、実はこれまでも、「自分はバカだから」とこぼす子どもに何人も遭遇してきた。

本当にそんなことないのに、と思う。

大人になればなるほど、自分に期待することがバカらしくなってくる。

それは子どもの時と比べて自分の実力を相対的に評価できるようになった証でもあるし、自分の能力の限界にある程度の見切りをつけられたことの証でもある。

子どもの時の全能感というのは歳を重ねるごとに削がれていき、最後には自分一人で何かをすることは案外難しいらしい、と悟るわけだ。

この「自分一人でなんとかすることが難しい」というのは当然本当のことで、その例に漏れず私も、最近自分一人で何かをした記憶なんてほとんどない。

誰かの力を借りないとなにもできないと、日々思い続けてもまだ足りない。

けれど同時に、人の力を借りるにしてもそれは要するにそれぞれ個人の力を借りている、ということは忘れない方がいいんじゃないかとも思う。

結局拝借しているのはその人個人の能力であって、私もまた微力ながら誰かのために尽力したいと思うわけ。

たしかに子どもの頃に思っていた全能感とは全く異なる感覚だけど、自分の力で誰かのためになれたらと思うのは、ある種自分の能力に期待していることになるのかもしれない。

子どもの頃から自分の能力を信じられなかったら、一体なにを頼りにやっていくんだろう。

子どもの時くらい全能感に溢れていたっていいし、その全能感が削がれる中でわずかに残った力があればそれだけで十分なんじゃないかと思う。

自分がバカだからなにもできないなんて、テストの点数や成績だけで人の価値が決まるようなこと言わないでいいのに。

彼らが早く、数字だけでは測れない人の価値があると気づけますように。

時間はかかるだろうけど、そうと分かれば先は明るい。あなたは全く、なにも悪くないと伝えたい。

無意識の感情について

慣れないことを立て続けにしていことと、いつも通りのルーティンワークを消化しようとすることの狭間に立っている。

どちらからも割合強い引力で引かれているから、引っ張られるちからで疲労が増幅していると思う。

本当に日記みたいになるけど、人を心配にさせる疲れ方はよくないと思った。

口に出さなければ十分いいんだけども、そういうのはイヤでも現れてしまう。たとえば表情だったり仕草だったり。

無意識の感情はできれば隠しておきたい。

疲労感みたいな悪い意味での「無意識」が自然と出てしまうのはできれば避けたいけれど、人への好意が自然と現れているのを見ると、なんだか無性に穏やかな気持ちになってしまう。

大事にしているとかされているとか、信頼しているとかされているとか、そういう安全欲求に関わる部分だと、人は案外敏感に感じ取ることができる。

逆に相手が恐々こちらに接しているのであれば、それも目元を見ればよくわかる。

特に子どもと話しているときそれは顕著で、相手が自分のことをどう見ているのか分かりやすいし(隠す術を知らないから)、相手もまた、わたしの接し方をよく見ている。

毎回毎回、彼らの目は騙せないなと思う。

けれど彼らのそういう表情は単なる無意識の現れだと思うから、だからこそ、嫌味がなくて穏やかな気持ちになるんだと思う。

私も、人を穏やかにする無意識なら積極的に表したいと思った。

まあそれは表したいとか言った瞬間から無意識ではなくなるから本末転倒なのだけれど、変にポーカーフェイスを気取る必要もないと思ったわけだ。

その分ネガティブな無意識が外に出ないように、電車の遅延とか車の水はねとか、そういう些細なことで怒るようになったらちゃんと休むようにしようと思った。

急な変化は、身体に悪い。

冷や水

今後関わらざるを得ない人、例えばインターンのメッセージグループを見たとき、「全力で頑張ります!」みたいなコメントが羅列されることがある。

意欲があるのは大変結構なことだけれど、異常な角度でひねくれたわたしからすると「何も成果を出していないうちから口だけ達者だと、あとあと自分の首を絞めかねない」なんて思ってしまう。

だからそういう自己紹介みたいな局面においてはあるべく当たり障りない(しかしやる気はあります!とアピールできる)言葉を探して送信するのだが、そういう時の自分のズルさは凄まじいことだなとも思う。

一方で自分がすごく頑張っていることとか、ありがたいことに信頼されていると自信が持てる場面では馬鹿みたいに熱いこともいたって真剣な顔で言えたりして、「あの時の自分と今の自分と、全く違う人が操ってるんじゃないか」と疑ったりもする。

多分それらの温度の決定的な差は、「自分がこの場を作っている」「雰囲気を支配している」という意識の有無なんじゃないかと思う。

「支配している」というのはあくまで雰囲気のことで、自分の発言一つひとつの影響がその場の隅々まで行きわたりかねない、という可能性そのものを言っている。

支配という言葉が正しいかは分からないが、感覚としては正しいと思う。

「自分がこの場を作っている」という当事者意識が五感の感度を上げると思うから、馬鹿みたいに熱いことを言ったとしてもそれが本当に思ったことだという自信を持っていれば全く臆することなく言えてしまう。

一方でまだ何も成果を出していない新参者のコミュニティでは、自分が作った雰囲気も何もないわけだから口先だけのコメントをするのが憚られる。臆病なだけかもしれないけれど。

たまに、どんな場面でも強く自分を出せる人に出会う。羨ましいと思う反面、一体その自信はどこから湧き出るのか疑問に思うこともある。

アツアツの石にあえて冷や水を掛ける必要はないんだから、自分だってちょっとは、どんな場面でも強く踏ん張れたらいいんだけどね。

いつだって隣の芝は青く見える。