思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

女性の持ち物

この間初めて話した男性がものすごく愛嬌にあふれた人で、「愛嬌というのは男女関係なく宿るものなんだな」と感心してしまった。

男性に対して「この人、愛嬌があるなあ」なんて思ったのは初めてのことだった。

彼は私より年下で、オノマトペで例えるなら「きゅるん!」という感じ。彼をみた私の友人は「後輩力が高い」と言っていた。うーん、言い得て妙。

何度か言っているような気もするが、私が上京するそのちょうど前夜、オバアチャンが唯一私に授けたはなむけの言葉が「女は愛嬌」だった。

体育会系女子校出身の身からすると「愛嬌で取り入る女になんてならんわ!」というのが本音だったのだが、今となってはその言葉の意味もよくわかる。

愛嬌というのは人に好かれるための能力というより、自分がより学びやすい環境を整えるための能力なのかもしれない。

能力というよりむしろ、才能とすら言えそうだ。

後輩力の高い彼はほかの先輩たちからも可愛がられていて、特に、積極的に質問する姿勢だったり、よりうまく振る舞おうとする姿勢だったり、そういうところがなかなか高い評価を得ている。

色々教えたくなる、とでも言えばいいんだろうか。

こういう様子を見ていると、愛嬌というのは女性だけの持ち物ではないし、ちやほやされるためだけに発揮される力でもないというのが身をもって(目をもって?)よく分かる。

私は愛嬌どころかまずこの冷たい話し方を改善しなくてはという段階にいるので、「愛嬌初級編」から履修しなければならない。

相手の目を見て話す時、口角は心持ち上げておきましょう。人当たりのいい穏やかな表情を意識しましょう。

まずはそこから、少しずつね。

夜道の主役

夜道を歩く時は、どうしても道の真ん中を通りたくなる。

渋谷や新宿はまだかっこつけきれないけれど、住宅街を歩く時には「今日の夜は自分が一番イケてる」と思うことができる。

自意識過剰とでも呼んでくれ。

住宅街でしかそう振る舞えないのはたぶん、自分の家の近くということで身の危険を感じにくいからだと思う。

夜の渋谷は人が多いし、うるさいし、人が多いし、人が多い。新宿はこれに加えて「コワイ」と思ってしまうから、余計にそう振る舞いにくい。

高校生の時に観た『新宿スワン』の衝撃が未だ尾を引いている。

金曜日の夜は電車も混むから、早く帰りたくなってしまう。そういう喧騒も嫌いじゃないけど、たまにでいい。

春が始まったばかりの生暖かい夜なんて、道路の真ん中を颯爽と歩くのにちょうどいい季節だと思う。かける音楽はきのこ帝国なんかがいい。

(ひとまず)危険のない道で堂々と振る舞っていると、得意でもないアルコールを飲みたくなるから不思議だ。

できればスミノフみたいな、瓶に入っているものがいい。

あるいは単に、瓶入りのオレンジジュースでも十分なのかもしれないけれど。

私の中には「夜道を歩く時は片手に瓶を」とかいうプログラムが生まれながらに備わっているらしい。

何度も経験したことがあるわけじゃないけれど、たとえば夜の公園でお酒を飲んだり、夜道を歩きながらお酒を飲んだり、「そういう夜風に当たりながら」というシチュエーションでお酒を飲むときが一番心地いい。できれば仲のいい友達と一緒に。

夜の昼寝から飛び起きて遅刻すれすれの時間に家を出たとはいえ、落ち着きを取り戻した今となっては夜の散歩に変わりない。

駅に着くまでのわずかな距離でも、夜道の主役として歩かせてほしい。

アルコールは、できれば帰り道に。

変化の兆し

Facebookで繋がっているだけ、くらいの知り合いが、どうやら最近、仕事を辞めたらしい。

そういう知り合いだからまあそれらしい理由もつらつら投稿していたが、なるほどね、という感じ。要するに「今の仕事に飽きた」ということだった。

私は社会に出て働いたことがないからその感覚を完全に理解できるわけではないが、与えられた仕事をこなせばそれなりのお給料がもらえる会社にいながらその選択をすることのリスクくらいはわかる。

大きな決断だったんだと思うが、投稿に添えられた写真には、顔を見たことがあるようなないような人の、清々しい顔が写っていた。

この人、いつ知り合ったんだろう?

彼の投稿に触発されたわけではないけど、最近の私のホットトピックは「変化」だ。

多くの変化を眼前でみるこの季節、人の信念はそれぞれあるという大前提を踏まえた上でもやっぱり、「何かを変えないと何も得られないことの方が多い」と思い始めている。

たとえば一緒にいる人を変える、新たな習い事に挑戦する、古い持ち物を捨てる、部屋を引っ越す、とか。

何かを得るというのは必ずしも「獲得する」という意味だけではなくて、何かを捨てることで得られる開放感だったり、(あまり経験したいものではないけど)死別による感情の揺れ動きだったり、そういうものもまた得るもののひとつと言えるんじゃないかと思う。

私が最近得たものはいかに慣れた環境に甘んじていたかという自覚で、それは前に書いた話とは違うベクトルだったりする。

内に向かって「違うことに挑戦するのは難しいなあ」と思うこともあれば、外に向かって「今までは上手くいってたのになあ」と思うこともある。

就活は人生の岐路に立たされるイベントのひとつだけど、今だってそれと同じくらい、自分の脆弱さを感じている。そんな深刻で大きな問題ではないけれど、それでもなんというか、「びっくり」という言葉がちょうどいい。

そうだ、変化への対応が恐竜くらい遅くなってしまったことに、我ながらびっくりしているんだと思う。

1ヶ月もすれば、きっとこのびっくり感も薄れて、なんら変わらない日常になるんだと思う。

慣れるまでの辛抱とは思わない。

今自分が思っているこの違和感みたいなものを、ずっと忘れないようにしようとだけ思う。

またこの感覚に再会したとき、引き出しの中からさらっとこいつを出してやれば、今みたいな焦りも少しは和らぐと思う。

選定能力

ドラマを見ていると、何気ないセリフが急に物語の核心をついてきてハッとすることがある。

それはセリフの秀逸さというよりむしろ俳優さんの演技力によるものなのかもしれないけれど、それでもやはり、少しはそのセリフの魔力みたいなものもあるような気がする。

ネットでもふと目に入った文章を読んで、そんなつもりじゃなかったのに、はらはら泣けてくる時がある。

最近は内田裕也さんの喪主を務めた内田也哉子さんの言葉を見て「どうしてこんなに綺麗なことが、嫌味らしくなく言えるんだろう」と思った。

美辞麗句が並ぶとどうも嫌味のえぐさが出てきて苦手だが、この時ばかりはどうしてか、全くそう思わなかった。

人の心を動かす言葉には、一体どこに魂が宿るんだろうと思う。説明が上手な友達の話を聞いていると、あれほど心のこもったプレゼンをされてしまうと、彼の勧めるものはどれも正しいとすら思えてくるくらいだ。

内田也哉子さんのそれは、心を動かされるだけでなく涙を誘うものでもあった。

「人の涙を誘う」ということそれ自体は目的になるわけじゃないけど、それほどまでに人の心を動かす言葉に出会う時は、いつもその丁寧な選び方や、あまりの率直さに驚かされる。

面と向かって話す時一番難しいのは、本当に伝えたいことを伝えられるような、適切な言葉を選ぶ時間が十分用意されていないことなんじゃないかと思う。

そういう時の丁寧さは毎日の訓練でしか養えないものだと思うから、ただの世間話だとしても、ぱらぱら聞き逃してはいけないんだと思う。

気を張って生きるわけじゃないけど、自分のためを思うと人との会話は多いに越したことないのだろう。

人見知りも、ほどほどにね。

進化の報酬

新しいことに挑戦する時、無意識に前の作業へ逃げてしまうことがある。
 
慣れた仕事は自分の経験値が生きるから、やっていて楽しいし、わかることも多くて心地いい。新しくやるべきことを考えなきゃいけない中でルーティンワークの方の問題が発生すると、自然とそちらを考えるように思考回路がシフトしてしまう。
 
そういう時ふと我に返って、「いやいや、今するべきはこれじゃないでしょ」と自分を戒めることも何度か。
 
易しい方へ流れてしまうのは、正直仕方のないことだと思う。でもそれを止めるのが理性の仕事だし、それをしないのが大人になるということなんだと思う。
 
新しいことを学んで考えながら進めることを楽しめる一方、易しい方へ流される自分は、まだ途上にいると痛感する。
 
 
 
慣れないことが多い中で思うのは、「考え方がわからない」ということが一番の足枷になるということだ。
 
考えるべきことに向けて何をすればいいのかわからないということは要は進め方がわからないわけだから、スタート地点からどう森を掻き分けて進むべきか、その道しるべがない状態にある。
 
誰しも最初はそういう状態から始まるわけだけれど、今の私もまさしく、という感じだ。
 
私はあまり要領が良い方ではないから、こういう考え方の流れみたいなものは経験値で補うのが手っ取り早い。
 
人のやり方を何かしらで学んでやるというのもひとつだが、それができる人はすごく要領がいい人なんじゃないかと思う。
 
かなり時間がかかってしまって、容量の悪さに申し訳なくなることもあるくらい。経験値を稼ぐのもまた、時間がかかるわけだけど。
 
 
 
「慣れた仕事ばかりしていると、脳が退化する」という話を聞いたことがある。正直その通りだと思う。
 
けど、新しいことをする時の段取りの悪さだったり思考回路の甘さだったりを体感すると、そちらに流れてしまう自分の甘さもまた痛感する。自分に甘いうちは、脳が退化するという代償を甘んじて支払わなきゃいけないのかもしれない。
 
退化の代償よりむしろ、進化の報酬を受け取りたい。なんて、それっぽいこと言ってみたりしてね。

カルチャーギャップ

日曜朝の渋谷駅に降り立つと、「どうしてこうも人が多いのか」と疑問が浮かぶ。

日曜の朝8時ですらこうして身だしなみを整えて出かけている人が大勢いることに驚きを隠せない反面、この人たちは果たしてどこから出かけてきてどこへ帰っていくのか、こんなに大勢の人をしまっておけるだけの家がこの近郊にあるという事実に直面して、日本の国土がすごく狭いみたいな話は嘘なんじゃないかと思えてくる。

都心から少し離れるだけではそうそう人の数なんて変わらないけど、違う地方に出てみると、東京の人口密度の異常さに余計目がいく。

と同時に地方の時間の流れの遅さと東京の時間の流れの速さに異常なまでにも差があって、どちらも両極端にふれているからこそ標準がわからなくなる。

人が多くて時間の流れも早すぎる東京で、正直、疲弊しないわけがないと思う。

とはいえ帰省したとき歩く人の流れがあまりに遅くて苛立つことも増えたから、知らず知らずのうちにこちらのルールに則って生活し、いつの間にかこれが「普通」になっていたのかもしれない。

大学生になって4年が経ったけど、山手線に乗ると人の多さと狭い景色に気分が悪くなっていた昔の自分へ伝えてあげたい。

案外こういう環境にはすぐ慣れるし、人の「普通」はすぐに変わってしまうものだと。

変化そのものが悪いわけではないが、ほんの1年前自分が思っていたことに「おかしいな」と思う瞬間は、なんとなくさみしくもある。

こうして毎日都心に通っていると、首都の恩恵を受ける一方、人の多さに辟易することもある。

都心の良さと地方の良さ、どちらも見た身からすれば、多拠点生活に憧れを持つ人が増える理由も案外わからなくないなと思ったり。

清涼感

「結婚しなくても幸せになれる時代に、私はあなたと、結婚したいのです」

言わずと知れた結婚情報誌『ゼクシィ』のコピーだ。

1,2年前のコピーではあるけれど、初めてこの文言を見たときの衝撃は今でも忘れられなくて、生意気にも「これが時勢を捉えるということか!」と思わされた。

みんなが思っているけど上手くいえないことを言い当てた言葉がヒットする、という話を聞いたことがある。

ゼクシィのそれもまさしくだ。清々しい言い回しもまた、その魅力に輪をかける理由の1つかもしれない。

つい先日、この「清々しい言い回し」をコピーに限らず会話でも実践してみたいと思った。

とはいえ清々しくと思えば思うほど語勢が強まり、冷たい印象に輪をかける。そう言われるのがあまりいいことではないと知っているから、あえて避けようとしてきたことだ。

けど、わかりやすく話したいという欲はある。塩梅!

友達と割合真面目な話をしているとき、納得感のある話し方をする人は「言い切り方がうまい」ということに気づいた。

そういう話し方は、道筋が通っていることはもちろんだが、ごにょごにょと語尾を濁す話をスッパリ言い切った上でそれを汲み取ったまとめ方をする。

話が上手いか下手かというよりも言い切り方が明瞭、わかりやすい。人のふり見てなんとやら。清々しさの正体はきっとこれだったに違いない。

冷たい話し方になる自分があまりすぎてはなかったから、無理にでも明るい話し方をと心がけていた。違うのかも?

人と話すとき、人前で話すとき、必要とされる要素は両方で違ってくる。

さて明日は、どちらで行こうかな。

へらへらした話し方と清々しい話し方と、気軽に試せるくらいにはスキルを身につけておきたい。