思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

いい言葉メモ

よかった言葉をメモする癖がある。
 
狙い打ったような広告コピーのこともあれば、友達の何気ない一言の時もある。あるいは、別に心打たれた言葉でなくとも、単純に印象的で面白かっただけのものを書く時もある。
 
いつの間にか始まっていたこの習慣は今もなお続いているが、本当に覚えておきたいことだけを書き留めているので、そこまで分量があるわけではない。たまに見返しても、ものの5分でみ終わってしまうような量だ。
 
たくさんのものが集まっているわけではないにせよ、少数先鋭の言葉の数々は、時に私のことを奮い立たせたり、楽しかったあの時を思い出させてくれたりする。
 
余談だが、昔は好きな写真を集めてひとつのノートにしていた習慣の延長線上にあるものなので、言葉であることに特別な意味があるわけではない。どちらかと言うと、自分で自分の機嫌を取るための助けになるアイテムをたくさん持っておくことに意味がある。
 
この手軽なメモはお金もかからないのにある程度の不機嫌は吹き飛ばしてくれるので、大変有用なアイテムの一つだ。
 
 
 
さて、この間改めてそのメモを眺めていたら、「夢に手足を。そして、手足に夢を。」という言葉があった。ほぼ日刊イトイ新聞糸井重里さんの言葉だった。
 
2ヶ月前に読んだ本の中に書いてあって、目に入った瞬間、心臓の底にカチッとはまった感覚があったことを思い出す。そして同時に、当時も今も、自分の夢に手足を授けられているのか自問自答してしまう。
 
あるいは、手に入れようとしているその手足に夢を与えられているのだろうか?
 
 
 
要するに実現の手段なき夢は虚しいという話だと思うのだけれど、大学受験とか就職活動とか、目下の課題に気を取られて、その過程で得た手足をいかにして活用するか考えきれていなかった自分を反省する。
 
毎年言っている「今年は英語をマスターするぞ!」とか、「Photoshop使えるようになるぞ!」とか、そのあたりと同じ匂いを感じる。
 
毎年同じような目標に終始する新学期を迎えるのは、手足に夢を与えられていないからだと思う。
 
 
 
かつて自分が感銘を受けた言葉に、今も色々と気づかされる。
 
昔の自分と今の自分は違うんだぜ!と大口叩いても、結局のところ、一番根元にある考えの浅さみたいなところはすぐに変わるものでもないのかもしれない。
 
夢に手足を。そして、手足に夢を。変化の兆しを感じさせる、新たな観点を。