思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

さじ加減

自分が幸せになるために誰かの幸せを犠牲にしないといけない瞬間があると思う。
 
そんな場面は何度も直面するものではないけれど、それでもやはり、「今の私はこの人を踏み台にして自分の幸せをつかもうとしているんだな〜」と自覚する時はある。
 
「自分の幸せ」なんて大層な言葉を使わなくても、例えば相手のしたがっていることを阻止しながらやってほしいことを強制する瞬間とか、相手の希望を遮ってこちらのやりたいことを優先したい時とか、程度の差こそあれ似たような場面はたくさんあると思う。
 
自分の幸せを、というよりは、相手の邪魔をしているという感覚が強いのかもしれない。
 
そういう時の私は「どうしても悪者になりたくない」という気持ちが先行してしまって、しぶしぶ相手の希望を受け入れたり、自分の願望を少し捻じ曲げてみたりする。
 
その様子を全くの外野から見ている小学校の先生からは「お友達と仲良くするのが上手で…」とご講評いただけそう。
 
体裁としては、100点満点の立ち居振る舞いだ。
 
けれどその視点をぐるりとこちらへ向けてみると、「一体何を守るためにこうして我慢しているんだろう」という気持ちが少なからず現れてしまう。
 
満点とは程遠く、到底自分が満足できる点数にもならない。
 
 
 
昨日も似たようなことを考えていたけれど、誰を目的語にして物語を進めるのかというのは、その主人公を誰に設定するのかよりも大切な気がする。
 
誰しも考え行動する時には自分が主人公にならざるを得ないわけだから、むしろそれを誰に対して行うのかに頭を使った方がいいと思う。
 
自分を幸せにするために、周囲をバシバシ切り倒していくのか。あるいは周りを幸せにするために、誠心誠意周囲に尽くすのか。
 
 
 
時と場合によって使い分けが異なるので、白黒はっきりつけなくてはいけないというわけでもないと思う。
 
けれど振り返れば、いつもどちらかに比重が偏っていたんじゃないかとも思う。さて、私はどちらでしょう!
 
 
 
何かを手に入れるためには何かを捨てなくてはいけない、とかいう言葉はあるけれど、その取引は必ずしも自分の中で行われるとは限らない。
 
私の中で何かを捨てることもあれば、他人の希望と引き換えに自分の欲を叶えることもある。
 
比重の置き方は人それぞれだが、少なくともその場面わけは、見誤らないようにしておきたい。