思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

脳内会議

内にいれば考えるよりも眠さが勝り、外に出れば年末だなあ以外の感情が死ぬという二者択一状態がしばらく続いている。
 
外出しようにも特別好きじゃないメイクの作業工程が大きな壁になって、やっぱり、自宅が一番という状態になる。今日もまさしく。
 
 
 
家から一歩も出なかった日の夜ともなると、「今日の私は1ミリも考え事をせずにこの日を終えてしまいそうだ」という後悔が湧き起こって、そしてその無駄遣いした時間を取り戻すために夜更かししてしまったりして、もう、本当にスパイラル状態になってしまう。
 
けれどこの後悔は結構本当のことで、外気が触媒になっているのか知らないけれど、一歩でも外に出た瞬間から目まぐるしい脳内会議が始まって、これまで考えなきゃ考えなきゃと思っていたことが突発的に解決したりする。
 
にしても、その会議のうるささと言ったら。
 
 
 
私はたくさんのことを(答えを出さないまま)同時に考えてしまうので、それらのシナジーが起こって全く別な考えが新しく沸き起こったりもする。
 
そしてそれに関して新たな会議室が開設されて、別のミーティングに参加していた人たちがその会議室にも顔を出したりして、また別な会議室にも同時に顔を出して、という感じ。
 
みんなひとつの議題にかけている時間が異常に短いために、どれも答えが出ないままに放置されていたりすることも、もちろん多発する。
 
 
 
誰でもそうだと思うけど、私は特に歩いているときにものすごく脈略のないことをいくつもいくつも考えていて、しかもその分子はこんな風にものすごい速さで飛び交っているので、例えば待ち合わせ場所に着くとか、誰かと落ち合うとか、そういう些細なイベントでその分子が飛び散ってしまって「あれ、さっきまで何を考えていたんだっけ?」とわからなくなってしまう。
 
ニワトリにはとっても失礼だけど、要はニワトリのように、3歩でも歩けばその時の記憶がすっぱりなくなってしまうことだってあるわけだ。
 
この砕け散った思考回路、一瞬の生も日の目を見ることなく粉砕されてしまうのは、大変かわいそう。
 
 
 
このブログの意義は私の承認欲求を満たすということが第一だけれども、それ以上に、毎日歩きながら、授業を受けながら、シャワーを浴びながら、脈略もなく考えているそれらを一つずつ形に残して、数時間後あるいは数日後の自分との話題を作っておくというのもまた大きな目的のひとつだと思う。
 
何かしら思いついた時は、自分専用のLINEグループにその思いつきをメモして投げたりはしているけれど、それでもこのオンライン上に残されたメモの精度がどれだけ高いものなのか、過去の自分が書いたわけのわからないメモを見ると疑問に思わざるを得ない。
 
たぶん偉大なるSNSの規則に則ってハッシュタグをつけるとか検索ワードを頭につけるとかそういう機転の聞いたことができれば全然問題ないはずなのに、やっぱり書き留めているものがものなのでその速さについていくのがやっとで、そこまで気が回らないというのが現状だったりなどする。ニワトリなので。
 
 
 
何もせずただ彼らが記憶の彼方に放り出されるのを見ているよりは有益だと思うけど、それでももっとやりようはあるのかな、と思ったり。
 
本当は、メモの仕方なんかより、なんでもいいからとにかく家の外で考える時間をたくさん持つ努力をするべきなのかもしれない。
 
散歩をする、とか?
 
となると、あの議論を会議と取り違えているミーティングが長くなってしまいそうで、でもそれって本当に意味あるの、なんて考えちゃうのは、日々の反省からなのかしらん?