思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

福山雅治がイヤな理由

1年ぶりに部屋の模様替えをした。
 
「テレビをみながらデスクで作業がしたい」と思い立っただけのはずが、気づけば5時間も作業してしまった。思い通りの配置になったのでまあ良しとする。
 
 
 
今の家にはかれこれ3年以上住んでいるのだが、今のところ、ユニットバスであること、隣人がうるさいこと、都民にはなれないこと以外は特に不便はない。
 
例えば、電車の路線が多いとかは唯一かつ最大の魅力だと思う。
 
住みはじめた時から特にユニットバスが嫌で仕方なかったのだが、こればっかりは未だに慣れない。
 
引っ越したい。都民になりたい。駅の近くに住みたい。欲だらけ。5兆円ほしい。
 
それでも引っ越さないのは、「5兆円が手元にない」と言うよりむしろ「めんどくさい」という一言に尽きる。
 
 
 
めんどくさい、の一言に込められる意味は「ヤバイ」と同じくらいたくさんある気がする。
 
伸縮自在な言葉は本当の理由を隠してしまうので大変厄介。エモい、映える、は特にその好例だろう。
 
この映画エモい、このカフェ映える、あの人めんどくさい、猫ヤバイ。
 
何がだよ!と言いたい。
特に「猫ヤバイ」ってどういうことなの本当に。
 
 
 
言葉は生き物だから、とよく聞くし、新しい言葉が流行るのをみて面白いなと思うことは多々ある。
 
使う年齢層が徐々に広がる様子を見ると本当にこれは時代に合った言葉だったんだ、と実感することもある。
 
けれどそれを流行に乗って使い続けるうち、自分がその映画の何に感動したのか、カフェのどこが凝っていると感じたのか、その人と関わりたくない本当の理由はなんなのか、全部の感情を忘れてしまう気がしてちょっと怖い。
 
特に、なるべく関わりたくない人を見つけた時「めんどくさい」とか「なんかやだ」と言うのは危険だなと感じる。
 
例の「ヤな奴」がブラックリスト入りを果たした段階でその詳細なレポートを残しておかなくては、将来的な「ヤなやつ候補」を見つけるアンテナが折れてしまうことになる。結果的に自分の安全が脅かされそうだなと。
 
 
 
この「なんかやだ」とかいうネガティブな言葉は頭にも残りやすい。
 
友人は昔、「福山雅治、生理的に無理でなんかやだ」と言っているのを聞いた時の記憶はいまだに鮮明だ。
 
なんというか、いろんな意味で驚いた。
 
「生理的に無理」も「なんかやだ」も本当の理由を葬る思考停止ワードだし、あれだけ清潔感のある福山雅治が生理的に無理になってしまうともはや日本国内の男性に可能性はないのではないかとすら思う。
 
清潔な福山雅治とは一体。
 
 
 
とはいえSNSだとか口頭での会話だとか、消耗される言葉ばかりが目に付く(耳に付く?)世の中だと思う。
 
しかしその一瞬ずつを自分の審美眼でもって審査しなくては、誰からも指摘されることなく多くの語彙が失われ、そしてその語彙の数だけ感性のシナプスも失われていくんだとも思う。
 
言葉の意味を殺すことは感性の寿命を縮める自殺行為と同じなのだから、彼らを長生きさせるためには、やはり自分の頭の中で、飛び交う言葉を鎮めたのち、彼らと話し合う時間が必要なのかもしれない。