思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

オーラを着こなす

私の数少ない女友達愛用の口紅は、CHANELのROUGE COCO 444番である。
CHANELのROUGE COCO 444番といえば、これぞシャネル、といった感じの真っ赤な口紅だ。彼女は大学入学からずっとこれを使っていて、かれこれ3年目の仲になるらしい。
 
男性は、真っ赤な口紅をした女性を見てどう思うのだろう。真っ赤な口紅は攻撃的で、野心的で、ギャルっぽくて、ちょっと近寄りがたい。パキッとした真紅の口紅は、男性受けの悪いメイクトップ1,2を争う人気のなさだと聞く。私もたまに真っ赤な口紅をつける時があるが、男性からの評判はすこぶる悪い。
 
人の情報は視覚に大きく依存しているので、人の見た目や仕草などの要素は、その人の性格を想像するのに分かりやすく大きな影響を与える。
そしてこれは、その人の「能力の高さ」という、捉えどころがなく目に見えない、ぼんやりした評価にも少なからぬ力を持っているのではないかと思う。
 
 
私は自分自身を『承認を餌に生きる金魚鉢の中の金魚』だと思っているので、人から「有能だね」とかいう承認を得ると「生きててよかった〜〜!」と思えるくらいには安い人間なのだけれど、この時同時に起こるのは「私、本当は全然有能じゃないのに」という自分への否定的な感情である。私は自分がカワイくて仕方ないけれど、同時に圧倒的なまでの自己肯定感のなさを兼ね備えた超不安定人間なので。
 
そして関わる人が増えるにつれてこうした場面に直面することが多くなった昨今、私はこの『有能じゃない自分が有能だと褒められるたび悲しい問題』を今一度考え直した。すると、「私は本当に有能なのではなくて、『雰囲気有能』なのでは?」という考えにたどりついた。世の中には『雰囲気イケメン』という言葉があるけれど、『雰囲気有能』という言葉も同様にあるんじゃないかと思う。
 
雰囲気有能とは、実際の能力が高いわけでは無く、仕草や表情、話し方などから醸し出す「有能そうな雰囲気」によって人を騙し、「有能だね!」というコメントを引き出せるオーラのことを言う。
この考えに至った結果、私は自分自身を「雰囲気有能」というカテゴリーに分類することで、人からの「有能だね!」という承認を傷つくことなく全面的に受け入れることができるようになったわけだ。誰も傷つかない、承認に満ちた平和な世界の確立である。
 
そして思うに、人から評価される『有能な人』と言うのは大概『雰囲気有能の人』を言うのではないかと。前にも書いた通り、人は視覚情報に大きく依存している。つまり、人への評価というのは、見た目や話しぶりにかなり左右されてしまう。事前情報による先入観や雰囲気に惑わされず、人の有能・無能を見極められる人がそもそも少ないんだろうなあ、とも。
 
 
Amy Cuddyの「Your body language may shape who you are」というTED talkがある。
 
私はこの話が大好きで定期的に見返していて、特にスピーチ終盤の"Fake it 'til you become it"という言葉がとても好きだ。
この一文がスピーチの内容全てで、要するに、自分のなりたい姿を真似していれば、いずれそれがホンモノの自分になる、という話。これは雰囲気有能という言葉に通づるものがあって、有能そうな雰囲気を意識的に纏うことで、いつか本当に有能になれるということになる。
 
 
 
私が真っ赤な口紅をつける時は、自分を強く見せたい時だ。自分を気位の高いタフな女性に見せたい時、私の口紅は力を授けてくれる。
人は見た目ではないと言うが、見た目から始まる強さがあってもいいと思う。
 
私たちは、見た目だけを取り繕うことに対して少々攻撃的になり過ぎている。自分を実際よりも有能に見せて、一体何が悪いのか。自分を武装して見せて、一体何が問題なのか。ライオンのたてがみがどういう役割なのか、知らない人はいないはずだ。
 
Fakeという手段は、私たちがなりたい自分に近づく最短かつ最速の経路だと思う。
見かけがいいこと、大変結構。本当に大切なことは、Fakeしているかどうかではない。見かけで人を騙している間に、自分がどれだけ理想の姿に近づけるかということだ。Fakeを用いて作り出した少しの時間に、自分がホンモノになるための修行をしないといけない。
Fakeの魔法は長くは続かない。が、彼ら彼女らが本当の姿になるまでに、ほんのわずかでも猶予をもたらしてくれる。
この猶予をどう使うかで、その人本来の強さは証明されることになるのではないか。
 
 
小学生時代、家での異名が『ビッグマウス』だった私は、粛々と年を重ねてハタチを迎えてしまった。一人娘として大切に育てられた私は、自分にはあらゆる才能が眠っていて、まだそれが開花していないだけだと、自分はいずれ何者かになれるはずだと幻想を抱いて(そしてカナシイ両親はまさにその通りだと疑うこともなく)、やがて今に至る。
私はいつまでFakeを続けるのだろう?そして、世の中のあらゆる評価軸で名声を得た人たちのどれだけがホンモノなんだろう?
 
私は、他人について考えを巡らせることは得意でも、自分について考えるのはあまり上手ではないらしい。いつかFakeを抜け出して本当の姿になりたいと思ってはいるものの、それもやはり、小学生時代のビッグマウスが顔を出しているだけなのだろうか。