思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

リハビリ

最近、教養欲しさに疎遠になっていた物語をたくさん読むようになった。
物語から得られる教養なんてたかが知れている。小説に出てくる音楽や知識を得ることはできても、評論文をひとつ読むには到底及ばない。

「大学生になったし知識欲しいな、教養を身につけていきたいな」と思っているうち、いつしか私の本棚は「わかりやすい!人に伝える手法」みたいなタイトルの本ばかりが集まる場所になってしまった。悪いことじゃないんだけれど、私はこれで、自分の想像力が徐々に弱まっているのを感じている。

物語ごときで想像力なんて、と思われるかもしれないが、他人が想像で書いた物語を引き受けて知らぬ間に感情移入すると、思いの外泣いたり笑ったりできて面白い。

けど、物語を読むことで復活させようとしているのは、想像力というよりむしろ、感受性というヤツかもしれない、と思えてきた。
人の想像して書いた文章を読んで笑ったり泣いたり悲しんだり喜んだり、そういう感情を揺らすための振り子が、私の中で鈍ってきているという感じ。
高校生の時、お世話になった国語の先生は「君は自分の持っている、人とは違うその感受性を大切にして生きていきなさい」と言ってくれた。
私はこの言葉を本当に大切にしている。君の考え方や感受性を理解してくれる人と出会ったら、その人たちのことを大切にしていきなさいとも。
私は先生から言われたことをこれからキチンと守っていこうと思っていたはずなのに、いつのまにか、私は自分のそれを殺すような選択を多々してきていたのかもしれない。ごめんね!

感受性とか愛とか信頼とか、そういう綺麗な言葉で表される形ないものって、今私が持っているかどうかも自分ではわからないし、無くなってもすぐには気づけない。目に見えないものほどきっと大切なはずなのに、見えないからこそ無くなっても探すことができない。悲しいね。
悲しいけれど、だからこそその大切さに気づいた今だけでも、やさしくしてやる必要があるのかもしれない。

今私が読んでいる物語も、イチゴの精霊がウサギのぬいぐるみに乗り移って、主人公に毎日愛を囁くというとってもとってもファンタジーなお話なのだけれども、そのテーマは「愛とは何か、どうしてヒトはヒトしか愛せないのか」という意外と高尚なものだったりする。
彼らが小説の中で目に見えない愛について考え、語り、行動するその様子を見ながら、私はいつの間にか鈍ってしまった(と思っている)感受性の振り子を、もう一度ゆっくり揺らし始めようとしているまさにその時なのです。そして彼らと一緒に、目に見えない世の中の様々について彼らとの付き合い方を考え直しているところなのです。