思考の自由研究

世界で一番かわいい言葉は「もぐもぐ」だと思う

大人の学び

もう最後に更新した時から2年が経っているらしい。単調な毎日にささやかな自己成長を見出しながら、自分の人生にとってこの成長は何を意味するんだろう?とか考えながら、それでも毎日、ただ大人らしく生きている。

 

大人らしい毎日というのは、楽しいとか楽しくないとかいうことではない。悪いことでもない。楽しい日は素直に楽しいと思えて、楽しくない日はまあそういう日も当然ある、と割り切れる。コントロールがうまくなったというか、なんか、そういう感じ?

 

この大人らしい生活の中で学んだことと言えば、バイトが好きだという理由でキツイ会社に勤めてはならない(もし仮にバイトが楽しいことを「自分には労働の才能がある」と錯覚している人がいれば、すぐに連絡して欲しい)、使えるお金が増えることはありがたいこと(好きなことを目に見える形で応援できるのは気分がいい)、椅子はいいものを買った方がいい(そして自分の腰のあたりをチラッと見てみる)、人と比べてもいいことなんてない(無論)、など。

 

学んだことなんて掘ればいくらでも出てくるが、誰が見ているかわからないところではあまり多くは語るまい。

ともかく、普通の大人になった。

 

 

さて、話は変わるが愛犬が亡くなった。

これはもうずっと前の話で、初盆も終わり、自分の中ではある程度折り合いが付いているので、こういう場面で話すことにした。亡くなった愛犬の写真を例のSNSや何やかにあげることも憚られ、ただ自分の携帯に保存された写真を見て、この毛並みに触れることはもうないんだと思うばかりの数週間を過ごした。

 

突然だった最期に立ち会うことは当然できなかったし、棺に入れる手紙は速達でも間に合わず、仏前に手を合わせにいくことすら1年以上の時間がかかった。

 

このご時世が憎い、とまで言わないが、今じゃなければ、と思わなかったと言えば嘘になる。

 

物理的な距離が何よりの障害になりうるちょうど今家族を亡くしたことは、自分にとってはかなり衝撃的なことだった。

生き物は死を前に無力である。一連の出来事を通じて、自分も、家族も、同じように死に向かっている生き物だということを再認すると同時に、自分がいかに感情に支配された人間だったかということを、たった1日で鮮烈に印象付けられた。ここまでも、情けなさと後悔と悲壮感が交わることはあるだろうか。

 

学びなんていう簡潔で憎たらしい一言に、この時の感情が収まるわけはない。

 

 

ありがたくも平坦な日々に慣れたことで、しんしんと募りゆく不満への耐性はあらかたできた。けれど同時に、突発的な悲劇への耐性は輪をかけて失われている。

どちらにも折り合いをつけようと思えばつけられるが、感情の揺らぎが心臓の奥深くで波打つ様子は、誰より自分がよくわかる。

 

バイトで働く時とは違う感情、

もっと楽してお金を稼げたらと思う惰性、

ひいては、人と比べずにはいられない圧倒的な劣等感。

そして全てをとんでもなく凌駕する無力感、などなど。

 

抑えようとすることができる自分に大人らしさを感じるが、内々に広がる動揺には子どもらしさも感じる。子どもの頃大人だと思っていた「大人」たちの中でも、こういう葛藤があったんだろうか。

 

そしてそう思うことそれ自体もまた、大人になって知った学びと言っていいのだろうか。

引力

この数日間、いろんなことを考えていた。

こういう繊細な話を書き留めるのもどうかと思ったり、人目につく場所でわざわざ言いふらすことでもないと思ったりした。が、近い将来読み返して、今自分が感じている、このざわざわ波打つ気持ちを何度でも思い起こせるようにしておく必要があると思った。どうせすぐに忘れるから。

 


私は彼を一方的に知っているだけだし、別に特別好きだということはない。けれど私の中のイケメン俳優史は彼が最新かつ最強の年代なので、大変おこがましいが、主観的な距離感で言うと「小学校の同級生」くらいの感覚がしっくりきていた。名前は覚えてるけど、どんな子だったかわからない、とか、席が近い時だけは少し話したこともあったかな、とか。輪郭だけ覚えているが、中身は忘れてしまったような人物像というか、なんというか。

 

繰り返すが、私は本当に彼のファンというわけではないし、事後「あんなに素敵な俳優さんだったのに」といかにもファンらしく振る舞うつもりは毛頭ない。それなのに今回受けた衝撃は言葉にできないほど凄まじく、最初にニュースを見た時には、すこし震えてしまうくらいのものだった。

飛び込んできた情報から、ふと引力が働き出す。

 

しばらくして、自分がもし彼と同じ年に同じ道を選ぶなら、22歳の今、何をするんだろう、と考えた。今この瞬間しかできないことは今しようと思ったり、今の自分が思う悩み苦しみは大したものではないのかな、と思ったりもした。

けれど朝になって手を動かし始めると、やっぱり今日もダメだ、明日もダメに違いないという気持ちになる。

 

悪い方向にも、いい方向にも力がかけられているような感覚がある。

赤の他人の不幸がここまで自分に影響を及ぼしてくるのは初めてで、正直なところものすごく動揺している。半年も経てばこの気持ちはすっかり忘れてしまうだろうが、ともかく今これだけこの話に引っ張られているのは、日々自分が感じている苦しさとやるせなさと、強く共鳴する部分があるからのように感じる。

私の話は面白くもないので、もう割愛する。

 

あまりの引力でずるっと足を持って行かれそうな気がしているので、なるべくこのニュースには触れないようにしている。けれどあの甘いマスクがあらゆる液晶に映るたび、罪悪感のような息苦しさにお腹のあたりを掴まれて、いつの間にか、彼のことばかり考えてしまっている。早くこの感覚が薄れたらいいと思う反面、薄れた瞬間にまた別の引力が働いてくるのだろうなとも思う。生の苦しみがある限りこの引力はなくならないのだろうが、今回のそれはどうにも強すぎる。おかしい、けれど手を止めることはできないから、ああ今日もダメだ、明日もダメに違いない、と思い続けることはやめられない。

千里の道も

Apple Musicでは、配信許可が降りていないアーティストの曲を聴くことができない。

 

これまで特別困ったことはなかったが、TikTokでたった15秒聞いた曲が数週間も頭から離れず、「Apple Music ない曲 買い方」と検索する羽目になった。

 

この年にもなって、なんとも幼稚な検索ワードだ。

 

 

冒頭言ったアーティストとはこの時、米津玄師を指す。ご存知の方は多いだろうが、米津玄師の音楽は、Apple Musicに加入するだけでは聴くことができない。

 

 

 

古参のような言い方をすれば、私もVOCALOID全盛期時代から彼の名前を聞いていたリスナーの一人だ。

 

特別ファンだったというわけではないが、二次創作が溢れるサブカルチャーの世界において、当時、彼の名前を知らないわけにはいかなかった。

 

とはいえiTunesで米津玄師と検索してみると「全盛期」の曲も現在の名義でボロボロ出てくるものだから、図らずもノスタルジーに浸ってしまう。あれもこれも、当時の自分が無限に聞いていた曲の数々だ。

 

そして懐かしむあまり、最初に探していた曲に加えて2曲ほど購入してしまった。すっかりiTunesの罠に嵌っている。

 

けれどまあ、結果よければなんとやら。擦り切れるほど聞けばいい。

 

 

 

さて、大昔の曲をナツカシーナツカシーと遡るうち、ふと「ワタシ、このまま行ったらどうなるのかしら?」と思った。

 

突拍子もない疑問だが、心当たりがないと言ったら嘘になる。

 

記憶を突っつかれて思い出したニコニコ動画でのハチ人気と、今のiTunesでの米津玄師への高評価の数々が、突如として一本の線に見えたからだろう。

 

一方今の自分の有様を鑑みると、この先につながる一本線の行き先は、心底悲惨なものになるのではないかと思ってしまったのだ。

 

ここまで偉大な作曲家と比較すれば悲惨さも際立つものだけれど、ここまで大きな差がなければ無視してしまうほど、今の自分はこの現実から目を背けようとしているのかもしれない。

 

 

 

最近、出かけるのが億劫だ。超寒いし、メイクも超面倒だし、出かければ金欠が超加速する。

 

地上波の番組はほとんど見ないで、何度も見ているおすすめ動画をひたすら繰り返す日々。映画も映画で、お気に入りを何度も観るタチだ。

 

けれど果たして、身体も意識もお出かけを拒むようになったら?私は一体、誰に何を覚えられて存在したことが証明できるのだろうか?

 

事件に際して、家族の言葉はアリバイとして機能しないらしい。他人の意識や記憶でしか、自分がそこにいたことを証明することができないのだ。

 

 

世の中との接点無くして生き延びようなんておこがましい。

 

与えざるもの、在るべからず。

 

キミは一人で生きているわけじゃあないんだぜ。

 

千里の道も、意識から。

意識が高いだけではダメだという話もあるけれど、意識無くして行動はないのだから、最初の一歩として悪いことではないと思う。

 

あくまでその先に、行動があるのならね。

 

 

 

あらゆる情熱を忘れかけた屍のような自分だが、心のどこかで「恥ずかしくない自分でありたい」と思っていることに安心する。

 

そしてこれを記録しておこうとPCのキーボードを叩くと、こういう時に限って手がかじかんでいるのが腹立たしい。思い通り動くようになったらなったで、そろそろ終わりの言葉を結ぼうという頃だ。

 

さてまずは、学業の諸々に手を付けるところから取り戻していくとしよう。

 

千里の道も、意識から?

回顧

お久しぶりです。お元気ですか?私は元気です。
 
本当に笑っちゃうくらい久しぶりなんですが、あれほどメチャクチャに更新していたブログをぱったりやめてから、私は文字通り何もしていなくて、サンドボックスゲームでひたすら整地をしたり、テトリスの最高記録を毎週のように更新したり、まあそういう具合に、文字通り何もしていませんでした。
なんたる虚無!
 
 
とはいえ、今年の年始あたりにはいろんな節目が終わったという感じがしていて、それと同時に、その峠を超えたおかげかなんなのか、どんどん普通の人になっています。
おかしいね、例のアレって個性が求められるらしいんだけど、私はどうやら違うみたい。フシギチャンが過ぎたから、社会に合わせてチューニングしたとポジティブ(に見せかけたネガティブ)に捉えた方がいいのかもしれないね。
ああ本当、イヤになっちゃう。いっそのこと、笑えちゃう。
 
人と違うことに対する恐れみたいなものが、年を重ねるごとに大きくなっている。そういう自分を感じるたび、加速度的に自己肯定感が下がって下がって、少し前の自分に戻ったみたいな気分がする。
 
お兄さん方は、どうですか?
お姉さん方は、顔色伺ってますか?
ワタシも漏れなくおんなじです。イヤになっちゃうね。ね?
 
 
話題の映画を観たあと、余ったポップコーンを捨てるのもそこそこに、SNSハッシュタグを検索する。
新しい環境に飛び込んだとき、人の印象に残ることよりも環境に馴染むことを優先する。
 
同じものを見た赤の他人と、同じことを感じていない自分は発言する権利がないんじゃないかと思う。
飲み会のあの席で、輪を取り持つ(フリをして空気のように振る舞う)以外の能が自分にはないんじゃないかと思う。
 
本当は映画を観終わった瞬間に「ぜんっぜん面白くなかった!」と叫びたいし、飲み会では「ディズニーランドの待ち時間に最適な手遊びは何か」とかいう不毛な議論がしたい。リズムに合わせるゲーム、大好きなんだよなあ。
 
 
映画を観たあと他人の感想を調べることも、新しい場所で親しみやすそうに振る舞うことも、それ自体はなんら問題がない。
けれど最近の私は、人が感じたこと・思ったことに寄せようとしているらしいし、全く初対面の人と話すたび、相手の顔色ばかりを伺って、同調することしかしないらしい。
 
要は人と同じであることに安心するようになっているわけ。
 
無意味な本能だと思う。
そして無意味だと思うと同時に、そう変わっている自分のことを心底怖いと思うし、心底嫌だと思う。
心底嫌だ、本当に。君はなんのために生きてるのさ?
 
人の才能を貶めるようなことばかり言って、一見才能のように見える努力を見ようとしない。
心底嫌だと思う。君はなんのために生きてるのさ?
 
 
最近の自分はキライな人間像の全てを詰め込んだパンドラの箱みたいなヤツで、本当、笑っちゃうくらい、キライもキライ。せめて手だけでも殺菌してくれたらいいのにね。
 
変わる努力とかなんとか、要はそういう悪い習性は努力で矯正できると思っていた。けれど染み付いたものを少しずつ変えるには、思っているよりも限りなく長い時間がかかるような気がしている。
 
歯の矯正って、少なくとも3年以上は見積もらないといけないらしい。当時ワタシを支配していたネガティブな気持ちは、一体どれだけかけて消し去ったんだっけ?そして今回はどうかしらん?
 
 
世の中いたたまれないことや悲しいことや辛いことばかりがお涙頂戴の文脈で語られることが多くて、いつの間にかそんなニュースを避けるようにテレビを見ることすらなくなりました。
 
けれど一番イヤな奴は離れたくても離れられない場所にいて、共存するのが難しそう。
なんで身体一つの中に、二人分の目を作っちゃうのかな。私が見張っている彼女は、ホント、私がして欲しくないことばかりしていてイヤになる。
 
二人分の空き部屋はないんだから、彼女にはもう早く帰ってもらいたい。
同棲解消、婚約破棄。後生の頼みだから、早く実家に帰ってくれ。僕らはもう終わったんだ。
 
そう罵倒されてメソメソする彼女を見ると、私はやっぱり肩を抱いてしまって、もういいよ、今日は早く寝よう、と慰めてしまう。
 
明日に備えて、早く寝よう。
 

秀才

学年も上がったからか、大学に行く頻度がかなり下がった。唯一取っている授業は少人数制で固定のメンバーしかいない授業だから、必然的に会う人も限られてくる。

この間長すぎる春休みが終わって大学に行った時、本当に偶然、そのクラス以外の人に会った。

何で知り合ったかあまり詳しく覚えていないけど、たしか何かのグループワークで同じ班になったとかそういう繋がりだった気がする。

彼はグループのリーダー的存在として人をまとめるのに長けていて、彼のおかげでグループワークが成功したと言っても過言ではなかった。

大して仲がよかったわけではないけど、あまりに久しぶりに声をかけられたので嬉しくなってしまって、ちょっと話し込んでしまった。が、なんだか変な違和感があって私は終始もぞもぞしていた。

私の知っている彼はもう少しスマートだった、と思ってしまったのだ。

ついこの間まで「なんでも知っている」と思っていた人が案外そうでもないらしい、と思うことは、あまり多く起こることではない。けれどあまりに期間が空いてしまうと、そういうことも起こりうるようだ。

以前は知識のある人が好きだし偉い、と思っていたけど、その人の知っている「私が知らないこと」というのは私が学を身につければつけるほどボロが出てくるものだから、その知識の差みたいなところは大して問題ではないんだと思った。

今はむしろ思うべき「頭の良さ」みたいなところは思考回路がいかに整理されているのかということや、食事の仕方が綺麗とかいう作法を身につけて育ってきたかなど、ある種一朝一夕には身につかない部分を指しているんじゃないかと思う。

食事の食べ方なんて頭の良さにカウントするものじゃないかもしれないけど、教育が行き届いているか否かの指標としてはとても信頼できるものじゃないかと思う。

知識は自分を守る盾になるが、それは結局付け焼き刃の盾に過ぎないのかもしれない。思考回路の分岐を増やすには、知識の先にある思考に耐えなくてはいけない。

人のふり見て我がふり直せ、とはよく言ったもので、私も、そういう時間を要する知識や教養のために先行投資できる余裕を持っておきたいと、目の前で話す彼を見て思ったわけだ。

変数

毎週毎週同じサイクルを繰り返しているだけなのに、週単位の疲れ具合が全く違うので不思議だと思う。

先週あんなにしんどかったバイトが今週は全然辛くなくて、終日働いたあとも一人元気に満ち満ちていた。

たぶん自分のモチベーションの変数がどこかに隠されていて、先週は見つけられなかったけれど今週はうまくそれがフィットしていたのかもしれない。

その違いがきっと、先週と今週の違いに繋がったんだと思う。

ずっと前に見たテレビで、「楽しさの変数を人におくのではなく、自分におくとよいことが証明されている」という話をやっていた。

つまり、例えば婚活パーティーみたいなものに参加するのであれば「ステキな人に楽しい話をしてもらえるかも」という期待を持つのではなく、「オシャレして出かけたんだから楽しい時間が待っているに違いない」と期待するということ。

他人に変数を任せることの危うさは想像に難くないが、案外頻繁にやってしまっている気がする。

この人に会えば必ず楽しくなるはずだとか、この人と一緒にやればうまく行くはずだとか、人任せの変数は作りやすいし責任転嫁しやすい安易さがある。

そういうモチベーションも時には必要だと思うけど、まずは自分の変数から機嫌をとっていくことを心がけたいと思った。

全然疲れなかった今週末のアルバイトは、きっと自分の中のモチベーションスイッチを担う変数が高い値で担保されていたんだと思う。

それはもしかすると準備万端で週末を迎えているという自信かもしれないし、あるいは自分がこの場を作らなくてはいけないという責任感なのかもしれない。

少しずつでも、その変数が変わらない確固たるものになってくれたらいいのにな!

八百万

いつも使っているBluetoothイヤホンの調子が悪くて、「もっと大事にしてあげればよかった〜」と思ったりなどしている。

そういえば昨日も愛用していたイヤリングを片方なくして、なかなか落ち込んだ。もっと大事にしてあげればよかった、とか、もっと使い込んであげればよかった、とか。

普段から使っているものの調子が突然悪くなったり、しばらく使っていたものを無くしたりするとモノに対して本当にごめん、と思えてくる。

幼稚園に通っていた頃から今も一貫して「モノには命がある」と思っているから、必要以上に大切に使おうとするし、それがしばらく使っていたものであればなおさら愛着が湧く。

たとえばパソコンやタブレットみたいなガジェットは命が長いものだしその綺麗さに人格が出るような部分があると思うので、「必要以上」の大切さはあまりないと思う。どれだけ優しく扱ってもキリがない。

けれど付箋とかペンとか、そういう細やかなものにもちゃんと命はあると思っているから、小さなものにも優しくしようと思う。インクがなくなった時には「ありがとう、さようなら」と言って捨てる。

メルヘンお花畑みたいな発想かもしれないが、でもそういう小さなものにも感謝できる人であろうとするところから、人の人格みたいなものは作られるんじゃないかと信じている。

ある種、自分がいい人であろうとする努力の一貫みたいな部分があるのかもしれない。

でもその結果として人もモノも分け隔てなく丁寧に接するゆとりが生まれると思うし(余裕があるときだけ)、ガタガタ音を立てて生活するようなガサツさは軽減されるんじゃないかと思う(もちろん、余裕があるときだけ)。

朝調子の悪かったイヤホンは、一度Bluetoothの接続をつなぎ直したらちゃんと動くようになった。

どうやら優しくするとかどうこうの話ではなく、単にメンテナンスが必要だったというだけらしい。