人と亀との共通点
真夜中にRADWIMPSを聴くのは危険だと思った。
ネガティブな時間帯は、感傷的な歌詞が当社比4割増しでグサグサ刺さってくる。センチメンタルに何かを悲観するのはある種自慰行為だから、そのサポーターとしてこの歌を選んでいると思えば筋は通っている。とはいえこの殺傷力。
深夜に限らず、そして野田洋次郎に限らず、音楽が授けてくれるもののひとつは、「こういうこと考えてたのって、私だけじゃないんだ」という安心感だ。
人に見せると疎まれがちな「考えすぎ」な部分をこの人たちが正々堂々世に送り出してくれることで、「なんだ、案外共感できる人いるんじゃん!」と思わせてくれる。
「誰にも理解されないかもしれない」という恐怖心は、底なしのブラックホールのようなものだと思う。
ある企業の会社説明会に参加した時、採用担当者から学生に向けて「あなたはなんのために働くのか?」という問いが投げかけられた。
前列に座っていた学生はもれなく指名される、というオプション付きだ。
私も少しは考えたが、シンキングタイムを寸分も与えられなかった一番目の学生が出したのは「自己実現のため」という答えだった。
耳障りの良い、なんとも大衆受けしそうな言葉だった。彼の防衛本能が、直接発した言葉だと思う。
彼を責めるつもりは毛頭ない。
当てられてすぐに答える瞬発力はすごいと思ったし、実際に私が自分の答えを頭の中でまとめたのはせいぜいその10秒後だろう。
でもその答えの奥底にあるのは、きっと恐怖心だと思った。
恐怖心の延長線上にあらゆる悪がある。
あらゆる悪があると思う。
体罰やセクハラに代表されるそれらは、双方向に向けられた恐怖心が事態を悪化させている。
その矢がどの向きであれ、身を縮めて相手の出方を伺う人の様子は、甲羅に閉じこもる亀そのものだ。
人の亀と違うところといえば、手足の長さと、嫌でも人と関わらざるを得ない社会性を持っていることだろう。
漫画でよくある「人と関わるのが怖い」みたいな登場人物は、程度の差こそあれ、実社会でも存在する。
誰かと関わることをほとんど強要されている私たちは、誰の代わりにもなれない自分が誰かに代わられる瞬間が何より怖くて、自分が唯一の存在だと信じるために、人の期待に応えようとする。
防衛本能からなる、期待に対する義務感。
他者と比べることで自分の価値を確認してきた私はあまりに臆病で、しかしそこで価値を得るためであればなんだってできるんじゃないかとすら思う。
恐怖と嫉妬を燃やして走れるなら、黒煙を立てて爆走したって構わない。
でもその寿命はきっと短いから、キレイなモノを見て、聞いて、恐怖心を克服せずとも安らかに落ち着けるくらいの努力はしたいと思う。
一生なくなることのないネガティブな感情を落ち着かせられるなら、夜中に野田洋次郎を聴くくらいの危険は犯しても良いのかもしれない。